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『シティ・オブ・ゴッド』・・・物語のリアリティ×映画としての凄さ

シティ・オブ・ゴッド DTSスペシャルエディション (初回限定2枚組) [DVD]『シティ・オブ・ゴッド』 フェルナンド・メイレレス(2002年)
2008年12月7日鑑賞


あっという間の130分。迫力ある映像展開。圧巻。時間軸の入れ替わる構成に、スピード感。凄い。

シティ・オブ・ゴッド(=神の街)と呼ばれるブラジルは貧民街の、発展(というのは掘っ立て小屋から立派なスラム街へという意味で)の様を背景に、そこに生きる人々を、殺人・ドラッグ・銃撃戦・リンチ・レイプ等の日常をセットに描き出す。

語り手は、シティ・オブ・ゴッドを抜けてカメラマンになろうとする青年、ブスカペ。彼の目を借りて、貧民街の内側からの視点で描かれたブラジルだ。撮影には実際のスラムに暮らす少年たちを起用したという。物語は事実を基にした話だというところが、更なるリアリティを生む(現実の映像が挿入されるところで、はっとする)。原作もさることながら、この世界をここまで描ききった監督は凄いと思う。

このリアリティの中で感じたこと。それは、同じように生まれ同じように育っても、一方はカメラマンに(あるいは、バスの運転手でも何でも良いが)なってシティ・オブ・ゴッドを抜け出そうとし、他方はギャング団に入り街の頂点に立とうとする。その差はいったい何から生まれるのだろうか?ということだ。それまでの経験?親からの教育?それとも、もって生まれた人の性質や性格なのか?

同じ経験をつんでも、人が違えば進む方向は異なる。どうせなら、みんながハッピーになる選択が良いに決まっている。けれど、こういうある種の極限状態が日常であったとき、私はどういう人生を歩んでいこうとするのだろうか。たらればなんてありえないけれど、ふと考えてしまった。
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by yebypawkawoo | 2008-12-30 00:17 | ◆映画のこと  

『ラスト、コーション』・・・偽りの中で生まれてしまった愛情も、本物だと思う。

ラスト、コーション『ラスト、コーション』 アン・リー(2007)
2008年9月21日鑑賞


『ラスト、コーション』で描かれるのは、トニー・レオンとタン・ウェイ演じる二人の、恋愛ごっこだ。二人の間にあるのは、異様な状況から生まれた仮初の恋愛だ。だけど、壮大で真剣で命がけなそのごっこ遊びの、嘘くささの中に飲み込まれていく二人の間には、確実に愛が存在したのだと思う。偽りの愛だったのだとしてもそれはそれそれとして本物だ。

恋愛は、その状況に酔っていく、というようなところがあると思う。なにも変わり映えしない平凡なシチュエーションが続くという状態では、長続きしないんじゃないだろうか。自分と相手の二人では成り立たなくて、自分と相手とそれを取り巻く状況の3者があってこそ成り立つ。状況が、非常であればあるほど、興奮は大きくなる。

恋愛は、執着だと思う。相手に対する執着心が、恋愛の興奮をさらに助長するのだと思う。そして執着は思い込みだ。自分を非現実の妄想の世界へと追い込んでいく、その過程が狂気だ。だけど、穏やかな恋愛こそが最高だ、なんていう人を私は信じない。表面上穏やかでも、内心に狂気をはらんでしまうのが、本物なんじゃないかという気がする。人は、恋愛初期のときめきが7カ月しか持続しない、という話を聞いたことがある。毎日晴天の恋愛ならば、さもありなん。穏やかに見えても、内情は怒涛の嵐だという状況が、恋愛を長続きさせるんじゃないかだろうか。

その上で、恋愛に常に必要なのは、客観的視点だ。そんな暴風雨に飲み込まれている自分を、雲上の安全地帯から眺めるもう一人の我を常に持っていたい。そして、相手に接するときは、雲上の自分を持ってくるのだ。内に嵐を秘めた状態で。時に決壊する堤防は、もしかしたら、大地に肥沃をもたらすという意味で重要な場合もある。雨降って地固まるとはよくいった話。

『ラスト、コーション』は恋愛ドラマだ。トニー・レオンとタン・ウェイの二人が演じる男女の、駆け引きと、嵐と、堤防の決壊を描いた物語だ。二人はその異様な状況に、それぞれ確実に酔っていたし、だからこそあれだけの激しさで惹かれあったのだと思う。雲上からそれぞれを見落ろしているつもりで、気付かないうちに落下していたのはお互い様だ。ラストの、宝石屋さんでのシーン。そこでお互いが、嵐の中に落ちていたことに気づいてしまうのだ。切ない。

タン・ウェイの、強い信念を持って一途に職務を全うする中で植えつけられた憎悪と、それに抗うように無意識に発生してくる愛情との駆け引き。そしてトニー・レオンの抱える圧倒的な虚無感や冷徹さと、非常に純真無垢ともいえる愛情との対比。凄い。その軸を支える、細かな描写もうまいなぁと思う。二人の絡み合うシーンや、女たちの麻雀シーンや。話題となったベッドシーンも、厭らしさは感じなかった。痛々しく、美しかった。
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by yebypawkawoo | 2008-10-15 23:49 | ◆映画のこと  

『フルメタル・ジャケット』・・・狂気の描き方が、秀逸すぎる

フルメタル・ジャケット『フルメタル・ジャケット』 スタンリー・キューブリック(1987)
2008年9月13日鑑賞


TSUTAYAって、1か月に2回くらいは、半額セールをやってくれるもんだから、ついつい映画を借りてしまう。安さにかまけて、いっぱい借りてしまう。見きれなくなって、延滞料金払うはめになる。結局高くついてるやん、っていう、これを何回繰り返せば、私は気が済むんでしょうね。

でも、この映画は延滞料金払う価値、全然あるね。キューブリックってば、やっぱり凄いんだなぁ。なんて、プロの歌手に歌うまいんですね、っていっちゃうようなもんだけど。

何が凄いって、前半部分があまりに秀逸。海兵隊の訓練の様を描いた前半部の中で出てくる教官のえげつない罵り言葉と、それからランニング時の歌の陽気さとお下品な歌詞のギャップ。狂気が、訓練生たちを(とくに“ほほえみデブ”を)むしばんでいく様は、圧巻。だってさ、最初と最後で彼らの表情がもう明らかに違う、これって演技だけじゃない気がする。役を超えた狂気に演者が取り込まれてる。こんな風に役者を取りこんじゃう凄さが、キューブリックなんだと思う。

彼らがベトナム戦争に参戦してからの後半部は、最後のミッキーマウスマーチでもって完成されてる。ミッキーマウスマーチだよ?なんつう皮肉ですか。そのセンスが凄い。

戦争もの映画って、その戦争の背景それ自体や、複雑な世界情勢や、それに翻弄される市井の人々や、そういうものを描いて、あなたはどう考える?これを知って何をするの?ていうような暗に何かを訴えかけようとしてくるものが多いけれど、この映画に限ってはもっと、普遍的で本質的な人間性そのもの、もっと根柢の部分を描いてるように思う。だから、この映画が扱っているテーマは、アメリカ海軍とか戦時下のベトナムだけじゃなくて、今の日本にだって当てはまるんじゃないかと思うのでした。
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by yebypawkawoo | 2008-09-14 22:48 | ◆映画のこと  

『オール・アバウト・マイ・マザー』・・・重要なのは人物の特異性ではなく、経験し感じる出来事の普遍性。

オール・アバウト・マイ・マザー『オール・アバウト・マイ・マザー』 ペドロ・アルモドヴァル(1998)
2008年8月22日鑑賞


久しぶりに見ました。2回目の鑑賞。やはり、アルモドヴァルの作品は好きだなぁとしみじみ。(そして、若し日のぺネロぺ・クルスが、そりゃあかわいい)

この作品には、女性の強さが見事に表現されている。あえて触れないという強さ、一気に突き進んでいく強さ。覚悟を決め、腹をくくったとき、どこか棄てばちともとれるような、そういう強さが、女性にはあると思う。果たして男性は、どうなのだろうか?実際のところはわからない。けれど、この作品に描かれる男性は、脇役でしかなく、だからというわけではないけれど、突き抜けたときに発揮される強さ(これは全くもって弱さの裏返しでもあるのだ)というのは、女性だからこそのものなのではないかと感じる。

アルモドヴァルの描く人物は、いわゆる“普通”ではない。性癖や取り囲まれた環境や、設定がノーマルではないことが多い。本作も、出てくる女性は特殊な事情のてんこもり。夫がゲイになってしまいそれを息子に打ち明けられないままその子と死別してしまった女性、彼女の元夫の子供を身ごもりついでにHIVまでもらいうけたシスター、同性愛の女優と、情緒不安定でドラッグ依存の彼女の恋人、底抜けに明るい両性具有のおかまちゃんエトセエトセ。でも、彼女らが経験する出来事や悩みの本質は、ものすごく普遍的なのだ。そして、そこに横たわる愛。泣きたくなるような、この愛こそが普遍だ。世の中には、設定が私たちに近い(つまり大多数が共感できるような)人々に起こる、一風変わった出来事や経験を描いた作品も多いけれど、私にはそんな物語よりも、アルモドヴァルの描く世界のほうが何倍も何十倍も共感できるのだ。
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by yebypawkawoo | 2008-09-08 01:34 | ◆映画のこと  

『愛されるために、ここにいる』・・・言葉の危うさを思う。

愛されるために、ここにいる『愛されるために、ここにいる』 ステファン・ブリゼ(2005)
2008年8月21日鑑賞


うーん、面白い。パトリック・シェネ演じる主人公は50歳過ぎたおじさん。別に格好良くもないし、地道に地味に生きてきた感じの、つまり、いわゆる普通の。おじさん。本作は、彼の一瞬の恋愛と、同時期に起こった家族間のやり取りが描かれる。そんな、自分とは全くかけ離れた素性ではあるけれど、子供の頃思っていた大人って、自分がその歳になって気づく、全然大人じゃないじゃん子供じゃん、っていうのの未来形を見せられたかのような感覚に襲われた。

父親との関係、息子との関係、女性との関係、そのどれもが自分自身にも当てはまる、と思う。身内だからこそ言えない(言わない)言葉、自己保身かプライドか、傷つきたくがないゆえに言ってしまう言葉。あえて自分の中でさえ言語化しようとしない、感覚を感覚としてそのまま触れないでいたい箇所。そういうものがものすごくうまく描かれていたのではないだろうか。

言葉というのはもの凄く危うい。発した言葉は、言葉として独り歩きしてしまう。本心はそうじゃなかったの、行間を、言外を読んでほしかったの、というのは単なる甘えに過ぎない。だけど、その部分に甘えている人のなんと多いことか。本当に正確に伝えたいならば、誠心誠意言葉を尽くさなければならない。一方で、どんなに言葉をつくしたからといって100%は伝わらない。自分の中で言語化した瞬間から、齟齬は始まっているのだから仕方ない。どこに重きを置くのか。どこを自分の中で大切な部分と定義づけるのか。それによって、言葉として発する範囲と深さは変わってくる。

本作の登場人物たちは、言葉を正確に発していない。相手に届けようとしていない。曖昧な部分に生じる偶然性に成り行きをゆだねている。あるいは、そう意識さえしていないかもしれない。そういうところが、人間らしい部分ともいえる。そういうところが面白くありさえもする。だけど、それだけで日々を過ごしていたら、それはただの怠けであり甘えであるとも思う。偶発性に身をゆだねるのは、その覚悟をもってこそでありたいな、私は。

そうはいっても、感情が先を行き、ひねくれ心が邪魔をしてどうしてもそうあれない時だってある。そういうところが可愛くもあるよね(これってでもあくまで、神の視点で見たときの話だけど)。そういう意味では、この映画、原題の「愛されるためにここにいるわけではない」のほうが、ひねくれ感が出ていていいと思うんだけど。
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by yebypawkawoo | 2008-08-21 23:29 | ◆映画のこと  

『モーターサイクル・ダイアリーズ』・・・経験にまさる見聞はないのだと思った。

モーターサイクル・ダイアリーズ 通常版
『モーターサイクル・ダイアリーズ』 ウォルター・サレス(2003)
2008年7月4日鑑賞


良い映画でした。

経験に勝る見聞はないのだと思った。本で読んで、映画で見て、感じることや学ぶことも多いけれど、やはり実体験に勝ることはないのだと思った。旅に出た時の、感覚がぶわっと蘇ってきて、それは決して3泊5日のパック旅行じゃ味わえない感覚。自分で動いて話しかけて、感じないとわからない感覚。それだけですべてを理解することは困難だけれど、(特に私(日本人)は言葉の壁があるので)、そこには言語を超えた共鳴が存在する気がする。そういうことを思い出した。

感じることは、たぶんただ考えることよりも偉大で、それをうまく言語化できなかったとしても、それがその後の人生を決定づけることがある。感覚だけで生きるのは、周囲の理解を得にくいという点において大変だけれど、そこから生まれる行動によって周囲の共感を得ることも可能なのだなと思う。けれどその行動は、ただ動くというだけでは無意味で、圧倒的なオーラというかエネルギーというか、そういうものが伴っていないといけない。想像を凌駕するような、感情の共鳴が巻き起こるような。ストーリーが必要なのだと思う。ストーリーは、先にあるのではなく、後からやってくるのだという気もする。

チェ・ゲバラの人生の始まりが特殊だったわけではないのだと、けれど彼はこの旅で確かに何かを感じ、そこから何かを考え始めたのだと、始まりは特別でなくてもいいのだと、そう思った。
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by yebypawkawoo | 2008-07-13 22:30 | ◆映画のこと  

『時計じかけのオレンジ』・・・30年前の衝撃が、今ではすんなり受け入れられちゃう事実。

時計じかけのオレンジ
『時計じかけのオレンジ』 スタンリー・キューブリック(1971)
2008年6月14日鑑賞


実は、キューブリック監督の映画はこれが初見。何の予備知識もなくいきなり鑑賞したのだけど、うわー面白かった。SFの棚にあったためにそこから勝手に連想・イメージされたものとは、全く異なる作品であった。近未来を想定、とのことだが、そしてこの映画が作られた1971年(まだ私生まれてない!)には、果たしてそうだったのかもしれないが、現代においてはまったくもって近未来ではなく今ここ、この現実を描写したものといっても過言ではない。いや、1971年からしたら、今こそが近未来なのかしら。

つけまつげしたマルコム・マクダウェル演じるアレックスの顔が印象的。暴力を使う、ということに何の疑問もいだいていない。それは映画全編を通してそう。どこか破綻してないとおかしい。おかしいのに、なぜかそのままの彼に(嫌悪感をいだきつつも)納得しちゃう。なんで?映画が公開された当初は、彼らを模倣した暴力事件が増えて問題になったとの事だけれど、今の時代にそこまでの問題となる作品ってあんまりない聞かないよなーと思う。寧ろ現実の事件として起こることのほうが余りにも衝撃的でそこから生まれる作品っていうものも多い。原作もまた、ある現実の不幸な事件を元に作られたそうだけれど。想像の中で人を殺すのは自由、実際に行ってしまうのが問題。というのはよくいわれることだけれど、現実が想像を超えてしまうのは怖いな~なんだか、と思う。今の時代において、何かものすごい大きな想像で創造して、私たちの想いを昇華させてくれるような、そういう映画やそういう作品ってなにがあるのだろう?
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by yebypawkawoo | 2008-06-18 15:48 | ◆映画のこと  

『悪い男』・・・ああ、こういう純愛もあるのだなぁ。

悪い男『悪い男』 キム・ギドク(2001)
2008年5月24日鑑賞


これは、チェ・ジョソン演じるハンギの愛の形を表現した映画。凄いと思った。今までこういう形の表現は見たことがないと思った。

本国、韓国では女性蔑視との見方から物議をかもしたらしい。
たしかに、何の罪もない女子大生ソ・ウォン演じるソナを気に入ったハンギは、彼女を手に入れるため彼女をオトシ、何人もの男に抱かれる様をマジックミラー越しにひたすら眺め続ける。ただの純粋な女子大生だったはずのソナは、なぜ自分がこんな目に合うのか理解できないまま、流されて娼婦業を続けるわけだが、ある日あるきっかけでハンギにはめられたのだと気づく。普通だったら、恨みむし、憎みますよね、ハンギのこと。もちろん、ソナも最初は憎んでた。けれど、だんだん気になり始める。というか、心の中に居座ってる、ハンギが。
一番最後のシーン、こういう二人の愛の形の結実は、ここに向かったのかと思った。普通なら、ホントに最低最悪、どうしようもないと思うはずなのだけど、ここに至るまでのハンギの想いと、ソナの心の移ろいをみていると、どうしようもなく美しく感じてしまう。

たぶん、理解できない人にはなぜソナがハンギを受け入れたのか全くわからないと思う。だけど、そういう願望ってたぶん私もどこかに持ってる。破滅願望というか。ある意味、DVを受ける妻とか、ホストにはまる女性、に通じるところがあるかもしれない。ハンギはただ純粋にソナを愛したのだし、ただこの方法しかわからなかっただけ。ソナは、その世界にあって、正常な判断が下せなくなっている、その中で同じくハンギを愛す。けれど、正常な判断って何?多かれ少なかれ人間は自分の作り出した、あるいは周りに作られた世界で生きている。その個々の“異常な”世界の中で判断し、選択している。そこには意識的か無意識的かにかかわらず、なにか理由が存在していて(そう、ハンギがソナを愛したのにだって理由がある)、それを本人がわかっていてそのうえで判断した行動であれば、本人が納得し幸せだと感じるのならば、誰にもそれを否定することなんてできない。

私は、すごく純粋で美しいと思った。ひどく悲しく切なくなった。彼らの愛が、どこか少しうらやましくもあった。
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by yebypawkawoo | 2008-05-25 09:39 | ◆映画のこと  

『天国の口、終りの楽園』・・・旅に出たくなった。

『天国の口、終りの楽園』 アルフォンソ・キュアロン(2001)
2008年4月14日鑑賞
(ややネタばれ有)
天国の口、終りの楽園。

旅に出たくなった。
旅に出たとき特有の、あの雰囲気。
どこか非現実なようでいて、その中で自分の日常を振り返ってしまう。
客観的に見えてくるものがある。あの雰囲気。

メキシコの風景が作られていなくて、とても自然にある。
その中を旅する、ガエル演じるフリオと、ディエゴ・ルナ演じるテノッチの二人の少年。
そして、そこに加わる人妻、マリベル・ベルドィー演じるルイサ。

二人の少年は、若いころ特有の、めちゃくちゃ感にあふれている。何かよくわからないまま、ままよ、とやってしまうあの感じ。実はまだ世の中のことも何もわかってなくて、でも自分の限られた認識の中で精いっぱい生きているあの感じ。今にして振り返ると、若かったなあって思ってしまう、あの感じ。

そして、ルイサ。ルイサの抱える切なさ。彼女の、その抱える切なさや孤独ゆえの、明るさ。ものすごい吹っ切れ感。これは一体何だろう?と思っていると、最後に納得する。少年達もきっと感じたであろう、やりきれなさというか言葉に尽くせない感じ。彼女への想い。それを私も同時に味わった。そして、もう一度見たくなった。彼女の視点で、この旅を。

政治とか、生活落差とか、経済とか、そういう社会的問題が自然な形で入ってきている。セックスとか、恋愛とか、若さとか、そういうものも。その描写の仕方が、現実を感じさせる。自然体なの、すごく。だから、すんなり入れる。彼らの、彼女の視点で一緒に旅してしまう。

しかし、映画の最後に、旅に出た時のあの非日常感は、けれど現実との対比の中での特別なんだ、と気づく。旅から戻った少年二人は、旅行中の出来事が関係しているのだろう、いつの間にか疎遠になり、現実の現実的な生活を送り始めるし、ルイサの旅は、死を直後に控えていたが故の、現実をはじきだすための旅だった。

旅に出たくなった。
現実を離れ、非日常に埋もれ、すべてが鮮やかで新しく何をしてもいい気がしてくる、何でもできる気がしてくる、そういう旅。けれどやっぱり、それは現実との対比でしかなく、現実を生きることが一番重要なのかもしれない。
それでも。そういう思い出があるからこそ、人生は楽しく苦く鮮やかなんだ、そう思うんです。
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by yebypawkawoo | 2008-04-14 17:02 | ◆映画のこと  

『バックマン家の人々』・・・親っても、ただの人間なのだよね。

『バックマン家の人々』 ロン・ハワード(1989)
2008年4月11日鑑賞

バックマン家の人々

親との関係に少なからず悩んでいる人には、しみる話なんじゃないかな。子供の視点というよりも、親の視点からの「家族」「親子関係」について考えさせられる。気づかされる。あぁ、親も人間なんだよな、と思う。

ひとつの家庭の子育てドラマ、ではなく、バックマン家親戚筋の4家族の話がそれぞれ描かれている。どの家族もうまくいってない部分があって、でもそれが普通なんだなと気づく。うまくいってないのではなくて、そういうもんだし、それにどう対応するかということなんだと。家族は繰り返す。父から子へ、そのまた子へ。母親から娘へ、息子へ、そのまた赤ちゃんへ。それぞれのライフステージで、いろいろなことに気付いていく。でも、そこに至るまでには気づけないことって多い。そんな当たり前のことに気づかされる。感動シーンがあるわけではないけれど、途中何度か私は泣きそうになった。

そして、この映画が作られたのは1989年。今から約20年も前なんだ(キアヌ・リーブスが若い!)。けれど、ちっとも色褪せてない。現代でもきちんと通じる。そうか、人間って、その家族って、きっとその大元はどこでもどの時代でも同じなのかもしれないなって、そう思った。
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by yebypawkawoo | 2008-04-11 21:44 | ◆映画のこと