すっかり東急ファン

東急のすごいところは、
鉄道事業と街づくりを組み合わせてるとこだと思う。

ほんと、街づくりがうまいなぁ。
綺麗で自転車の似合わない街。町じゃなくて街。

東急のマンションはそんなにオサレ感はないけれど、
街はコジャレ感がある。セレブ感すら漂う。


最近では、乗り換えが安いことを理由に
行動範囲がすっかり東急沿線エリア内に落ち着いてしまった。

今日は二子玉まで行って、駅構内にある本屋さんを物色した後、
戻ってきて自由が丘で降り、
ようとしたものの、数百円の電車賃をけちり、
入場駅に戻ってきた。

1時間もたってますがどこまで行ってたんですか?
と駅員さんに詰問され、
二子玉まで行ったけど降りてません、
とどうどうと答えたならば、
降りてなくても電車賃はかかりますから、
と二子玉往復分の運賃をきっちり引かれた。
けちだ、なぁ。


東急ブランド街を闊歩しつつ東京(都会)っぽいと悦に浸るのは、
私が田舎モノだからで、
たかが数百円を出し惜しみ結局損をして心から悔しがるのは、
私が根っから貧乏性の庶民だから。


東急の計算されつくりこまれた街。
ファンになったつもりでも、結局生活レベルで馴染めてないじゃん、私。
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# by yebypawkawoo | 2008-09-20 20:29 | ◆日々のこと  

体力低下を嘆く

あまりの運動不足っぷりに嫌気のさした私は、
ご近所の洗足池公園までジョギングしに行ってきました。

まずは準備とばかりに、
パソコンを変えた3月以来、いじってなかったiTunesを久方ぶりに開き、
走るに最適な音楽CDを選び出し、iPodへ移し替える。

なぜそこで、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTを選んだんだろう。
なぜそこで、Nirvanaを選び出すんだろう。

祝日の洗足池公園は、幼子を連れた家族づれでいっぱいで、
ランナーもいれば、サッカーに興じる少年からバトミントンするカップル、さらには
池の中にはスマートな鯉もいて、それを見つめるおじいさんだっている。
かつてよく行ってた若者満載の井の頭公園とは違って、
なんつうか全うな“家族的”さわやかさにあふれてる。

そんな全うなさわやかさとは全くもって無縁の音楽を聴きながら走る洗足池公園の
なんとさわやかで清々しいことか。
あまりのGAPに立ちくらみが・・・。

ではなくこれは、快調に走りだして10Mで体力低下を痛感し、
瞬時にスピードが1/5まで減速した私の、
血糖値の下降によってもたらされた立ちくらみである。

それでもなんとか、1周約1.2kmの池を4周走り切り、
わたしってば凄いじゃん、と朦朧とする頭で自画自賛しながら、
緑に囲まれた家族団欒をぼーっと眺めると、なんだか悲しくなってきた。
さわやかに風切り汗ひからせジョグするはずが、顔ぐちゃぐちゃで髪ぼさぼさのこの体たらく。
幼き頃のあれやこれやの光景がフラッシュバック。自分の体力の衰えが身に沁みる。
そんな心に響く、iPodからの音楽(大音量)。選曲間違ってなかった、たぶん。

帰り道で思い出す。そういえば私、難聴になってたんだった。なにやってんだか。
この苦難に負けずに、家族の和気あいあいっぷりに対抗できるほどの心の余裕を、
それを生む持久力をつけなければと、決意した、敬老の日。
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# by yebypawkawoo | 2008-09-16 01:41 | ◆日々のこと  

『フレンチなしあわせのみつけ方』・・・一人の人しか好きであっちゃいけないのは、何でなんでしょうね。

フレンチなしあわせのみつけ方『フレンチなしあわせのみつけ方』 イヴァン・アタル(2004)
2008年9月12日鑑賞


好きな人は一人じゃないといけないの?どうして一人としか結婚しちゃいけないの?

劇中、確か、こんなようなセリフを小さな男の子が発するのだけど、まぁ端的にいってしまえばそういう映画。夫婦間の愛と、夫婦外の愛(ありていに言って浮気っすね)と。

好きなシーンが二つあった。

ひとつは、夫の浮気を察知し自分のこれからを悩むシャルロット・ゲンズブールが、ジョニー・デップとHMVで出会うシーン。たまたま二人とも音楽を視聴してるんだけど、それが画面いっぱいに流れ出す、その音楽ってのが、radioheadの“CREEP”。大音量のCREEPを背景に、二人は見つめあいます。もう、このシーンが問答無用で好き。

音楽って、思い出と一緒になっていることが多い。誰かにとってのある種の音楽は、聞くだけで、かつての記憶とその時の感情がフラッシュバックしたりする。CREEPは私にとっては、そのある種、なので、それと相まって、シャルロット・ゲンズブールのドキドキ感がもうひしひしと。山田詠美さんもいってました、素敵な男の子がいたら、じっと観察すること、目が合えばにこっとほほ笑むこと。これが出会いには不可欠だと。まさにそんなシーン。こういう時のときめきってのは、いくつになっても忘れたくないよね。

もう一個は、冒頭で紹介した、男の子のセリフのシーン。まだ幼い彼の素直な感想は、なんと根源的問いであることでしょう。まだ常識とか恋愛云々とかそういうのを体感していない彼だからこそのこの言葉、は、この映画のテーマにそのまま直結しちゃってます。問いはシンプルなんだよね。それを難しく考える(立場とカ、しがらみとか、色んな人生とかとかね)から、難しくなるわけです。でも、人生ってば複雑怪奇で難しいんだもんね。もっと単純に割り切れたらいいのに。なんて思う夜もあったりなかったり。
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# by yebypawkawoo | 2008-09-15 23:52 | ◆映画のこと  

『フルメタル・ジャケット』・・・狂気の描き方が、秀逸すぎる

フルメタル・ジャケット『フルメタル・ジャケット』 スタンリー・キューブリック(1987)
2008年9月13日鑑賞


TSUTAYAって、1か月に2回くらいは、半額セールをやってくれるもんだから、ついつい映画を借りてしまう。安さにかまけて、いっぱい借りてしまう。見きれなくなって、延滞料金払うはめになる。結局高くついてるやん、っていう、これを何回繰り返せば、私は気が済むんでしょうね。

でも、この映画は延滞料金払う価値、全然あるね。キューブリックってば、やっぱり凄いんだなぁ。なんて、プロの歌手に歌うまいんですね、っていっちゃうようなもんだけど。

何が凄いって、前半部分があまりに秀逸。海兵隊の訓練の様を描いた前半部の中で出てくる教官のえげつない罵り言葉と、それからランニング時の歌の陽気さとお下品な歌詞のギャップ。狂気が、訓練生たちを(とくに“ほほえみデブ”を)むしばんでいく様は、圧巻。だってさ、最初と最後で彼らの表情がもう明らかに違う、これって演技だけじゃない気がする。役を超えた狂気に演者が取り込まれてる。こんな風に役者を取りこんじゃう凄さが、キューブリックなんだと思う。

彼らがベトナム戦争に参戦してからの後半部は、最後のミッキーマウスマーチでもって完成されてる。ミッキーマウスマーチだよ?なんつう皮肉ですか。そのセンスが凄い。

戦争もの映画って、その戦争の背景それ自体や、複雑な世界情勢や、それに翻弄される市井の人々や、そういうものを描いて、あなたはどう考える?これを知って何をするの?ていうような暗に何かを訴えかけようとしてくるものが多いけれど、この映画に限ってはもっと、普遍的で本質的な人間性そのもの、もっと根柢の部分を描いてるように思う。だから、この映画が扱っているテーマは、アメリカ海軍とか戦時下のベトナムだけじゃなくて、今の日本にだって当てはまるんじゃないかと思うのでした。
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# by yebypawkawoo | 2008-09-14 22:48 | ◆映画のこと  

相変わらず、耳が聞こえないこと。

相変わらず、耳の調子の悪い日々が続いています。聞こえたり、聞こえなかったり。先日、初めて総合病院に行ってみて、検査を受けた結果は、“突発性難聴”。

なんだ、やっぱり聞こえなくなってたんだ、よかった。と、どこかしらほっとした私は、なんだか間違っている。けれど、何度も病院(町医者)に行っては、「聴力は普通です、様子を見ましょう」を繰り返されてきた身としては、はっきりと診断名がついたことで、具合の悪さが独りよがりではなかったことを証明できたと、そのことがうれしかったのでした。

自分の感じている異変っていうのは、他人からはわからないから、もしかしたら、私の耳がおかしいのではなく、聞こえていない気がしている私自身の感覚のほうが(つまり心とか頭とか、そっちね)おかしくなっている、っていう可能性も十分あるわけですよ。う~ん、怖い。

それにしても、医療っていうのは不確実性にあふれているのだなぁと、そんなことを実感。大量の薬を処方した、医者いわく、
「この薬を飲まなくても、3割の人は自然治癒します。薬を飲むことで、その確率がいくらかあがる。でも、治らないこともあります。」

これまでの医療現場の経験知から、最もよく症状に効いた、しかしなぜその症状がおこり何に聞くのかはきちんと解明されていない、という薬を処方されたわけだけども、副作用も強いと言われたけれども、まぁ、飲まないわけにはいかないよね。だって、耳が聞こえないのって、本当に苦痛です。

外部音が聞こえにくいだけでなく、自分の声も内部で鳴り響くから、もう何が何だかわからない。ぐわんぐわんなわけ。そうすると、人としゃべることが億劫になるよね。このままこの状態が続くならば、私ってばものすっごい内気で非社交的人間になるに違いない、なんて思った。今が社交的であるとは決して思わないけれど、輪をかけて家にこもるんじゃないかしらん、そうすると、外見上は普通だから、ただの暗い陰気な人だよなぁなんてね。そういう身体的条件っていうのは、少なからず性格に影響を及ぼすに違いない、と思った。

そう思うと、人は見た目が9割とはよく言う話だけども、見た目だけではわからないことも何と多いことか、ですよ。それとも、そういう内部×外部環境が相まって、人の外見を形作っていくのだろうか。本当は、私はこちらの意見に賛成派。とすれば、わたしもいつかは、陰気な暗~い表情をした怖いおばちゃんになっちゃうのかも、それは嫌。

ま、だから難聴を治すべく、不確実性にあふれたお薬を、朝昼晩、大量に服用している私です。副作用は、いまのところそんなに強く出ていません。
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# by yebypawkawoo | 2008-09-14 11:31 | ◆日々のこと  

『ドッグヴィル』・・・何が本当の正義なのか。

ドッグヴィル スタンダード・エディション『ドッグヴィル』 ラース・フォン・トリアー(2003)
2008年8月24日鑑賞


なんなんだ、この映画は。すごい。凄いの一言に尽きる。177分と、約3時間弱もの長編にも関わらず、真夜中に見たにも関わらず、まったくもって眠くならなかった。むしろ、時間がたつにつれ、意識は物語の中へと引きづり込まれ飲み込まれていく。いつもなら残り時間が気になり、映画館ならこっそり携帯を、DVDなら残りの軸の長さを、ついつい確認してしまう私なのに、一度も時計を見ることがなかった。

まず興味深いのが、場面の設定。舞台はドッグヴィルという、アメリカはロッキー山脈のふもとの小さな村、閉鎖空間。これを表現するのに用いられたのは、地面とそこに描かれたチョークの境界線。これは見なきゃわかんないね。こんな感じ。
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全部で9のchapterに分かれていて、その冒頭部では小説の章題のように、各Chapterを説明する文章が挿入されるのだけど、それによって次になにが起こるかが分かってしまうにもかかわらず全然飽きることもないのは、この映画で描かれているのが、きっと誰もが持っている人間の嫌な、でも本音レベルで全然あり得る感情とそこから生まれる行動だから。自分の嫌な面を突き付けられた時、そこから逃げるのか受け止めるのか。なにが起こるのか私は目が離せなかった。分かっていても、本当にそうなってしまうのかを確かめたかった。きわどく不快な行動にだって、自分ならそうしないなんて、全然思えなかった。それは私が、映画の鑑賞者という神の視点を離れて物語の中におりたった瞬間から。

この物語で演じられるのは閉鎖社会の恐怖、のように私には思えた。閉鎖社会といったのは、その名のとおり狭く閉ざされた空間、という意ではなくて(もちろん、それも含まれるのだけど、)ひとつの価値観やあるいは文化を形成し共有する集合体、ということ。小さくは家族だってそうだし、大きくは地球ということもできる。地球に住んでいるということによって生まれる常識を我々はある程度共有していて、それは外部から見たら非常識でありうる。一人ひとりの意識や感情は、共通項を見つけて大きくなっていき、結果として意思をもった生命体のように蠢いていくことは往々にしてある。個を見れば些細なことがマスとなると何倍にも強大化してしまう。その恐ろしさが如実に表れている。ひとたび部外者という認識を持った時、人はきっと、何だってできるんだ。どんな、残酷なことも、手ひどい仕打ちも。

何が正義で、何が悪なのかということを考えさせられる。ニコールキッドマンの最後の選択は、善悪でも正誤でも語れなくて、でも彼女がその決断の前に考えたことには共鳴させられた。結局行きつくのは、自分にとっての正義が何か、でしかないのかなと思って、少し虚しさを覚える。いつだって、大多数が正しく、権力者が強く、それは正義の力が強大化するからなのだ。そんなの間違っている、という意見が強くなるならば、そう思う人の母数が増えたという話。それならば私は、私にとっての正義をきちんと見つめ、考え、それに従って行動するしかない。
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# by yebypawkawoo | 2008-09-13 00:43 | ◆映画のこと  

『オール・アバウト・マイ・マザー』・・・重要なのは人物の特異性ではなく、経験し感じる出来事の普遍性。

オール・アバウト・マイ・マザー『オール・アバウト・マイ・マザー』 ペドロ・アルモドヴァル(1998)
2008年8月22日鑑賞


久しぶりに見ました。2回目の鑑賞。やはり、アルモドヴァルの作品は好きだなぁとしみじみ。(そして、若し日のぺネロぺ・クルスが、そりゃあかわいい)

この作品には、女性の強さが見事に表現されている。あえて触れないという強さ、一気に突き進んでいく強さ。覚悟を決め、腹をくくったとき、どこか棄てばちともとれるような、そういう強さが、女性にはあると思う。果たして男性は、どうなのだろうか?実際のところはわからない。けれど、この作品に描かれる男性は、脇役でしかなく、だからというわけではないけれど、突き抜けたときに発揮される強さ(これは全くもって弱さの裏返しでもあるのだ)というのは、女性だからこそのものなのではないかと感じる。

アルモドヴァルの描く人物は、いわゆる“普通”ではない。性癖や取り囲まれた環境や、設定がノーマルではないことが多い。本作も、出てくる女性は特殊な事情のてんこもり。夫がゲイになってしまいそれを息子に打ち明けられないままその子と死別してしまった女性、彼女の元夫の子供を身ごもりついでにHIVまでもらいうけたシスター、同性愛の女優と、情緒不安定でドラッグ依存の彼女の恋人、底抜けに明るい両性具有のおかまちゃんエトセエトセ。でも、彼女らが経験する出来事や悩みの本質は、ものすごく普遍的なのだ。そして、そこに横たわる愛。泣きたくなるような、この愛こそが普遍だ。世の中には、設定が私たちに近い(つまり大多数が共感できるような)人々に起こる、一風変わった出来事や経験を描いた作品も多いけれど、私にはそんな物語よりも、アルモドヴァルの描く世界のほうが何倍も何十倍も共感できるのだ。
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# by yebypawkawoo | 2008-09-08 01:34 | ◆映画のこと  

私は決して、冷静な人間ではないけれども

今日の東京は、ものすごい雨。
東横線も目黒線も落雷の影響でとまってしまい、帰れぬ私は濡れ鼠。

よくよく聞けば、目黒線は奥沢まで運転してるらしく、こんなに人のいない交差点は初めて見た渋谷から、目黒経由、東急目黒線にのりました。時を同じく、東横線が各停で運転再開されたとの放送がある。二子玉川方面に行きたい人は、大岡山経由大井町線、自由が丘乗り換えで東横線に乗れとのアナウンス、と同時に、終電は駅係員に聞いてねと、なんとも無責任な目黒線は運転手の言葉。

そう、つまり割と満員の電車の中は、雨に打たれてずぶぬれ(傘さしてたってあんまり意味はなかった)の、終電に乗れるか乗れないか瀬戸際の、誰もが口にはださねど焦っている、そんな前提条件がそろっていました。

さて、停まったのは武蔵小山駅。

聞こえてくるのは若い男の子の怒声と、ぱこっという鈍い音、続けて「ケンカです」という若い女性の声。ほんとね、見えないけど、ぱこぱこいってるの、取っ組み合いの殴りあってるみたい。心なしか若干人の波が押し寄せて、たぶん避けてんだね。駆け寄る駅員さん、引き離される男性、電車から一人が引きずり出されて、窓から見えるのはまだあどけなさの残る男の子、のゆがんだ顔。と、叫び声、いや叫んでいるゆがんだ顔。もちろん、BGMは絶え間ない怒声。行ってることは支離滅裂。よくある話、自分の感情がすでに完全に抑えられていない状態。

それで、その時の車内の雰囲気。これが、最悪でした。

「東横の最終乗りたいんだけどー」若い女性。「みっともない降りてやれば」中年男性。「みんな迷惑なんだけど」若い男性。口々に文句を言いだした。助言でも、場を(問題を)解決する言葉でもなく、ただ自分の感情を口に出してるだけ、に聞こえた。それに、この興奮した男の子二人に、そんないらだった声でいたって、余計興奮させる、火に油なだけだよ。

一方私は私で、野次馬根性丸出し、座った座席から窓の外を覗き込んでた。誰だ?どんな顔してんだ?こんなに感情むき出しにできる人ってのは?ある意味客観的、いらだちとは無縁。でもそれは、ひょっとしたら、この電車に乗れたからには確実に家には帰れる私の、状況が生む余裕、ただそれだけだったのかもしれない。

冷静な人間というのは、余裕のある時に冷静であるではなく、
余裕のない時にこそ冷静であれる人のことを指すのだと思う。

たとえば今日であれば、もうどうしたってたぶん、この興奮した二人組は収まらないから、無理やりにでも引き剥がして、別々の車両に押し込む、とかさ。文句いたって、それは全然意味ない、というよりむしろ、周りの人への不快感を生んでいるという点で悪。

状況をいつでも、客観視できること、というのは冷静であるための一条件?
自分も含めて客観視できること。いや、というより、自分と含む周辺環境を見つめる天からの視点を常にもっていること。自分の行動を起こしたその瞬間に、他人の目で自分を見ること。同時並行に起こり、瞬時に判断し、その瞬間に行動に移す。

私は決して冷静な人間ではないけれども、自分を見つめる他人のような自分の目を意識したことが、何度かある。それは意識的なものではなく、ふとした瞬間に訪れる、一つの感覚だ。この感覚をいつでも発動できるように、なれればなぁ。


さて、濡れネズミの私。
今日行った飲み会で、「雨ひどかった?どのくらいぬれたの?」と聞かれ、「服の中までびちょびちょです」、と答えたらば喜ばれた。

酒の席での下ネタは、冷静さとは無縁の話?
それとも、意識的冷静さ欠如であると言い張るのか。
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# by yebypawkawoo | 2008-08-30 01:30 | ◆日々のこと  

『愛されるために、ここにいる』・・・言葉の危うさを思う。

愛されるために、ここにいる『愛されるために、ここにいる』 ステファン・ブリゼ(2005)
2008年8月21日鑑賞


うーん、面白い。パトリック・シェネ演じる主人公は50歳過ぎたおじさん。別に格好良くもないし、地道に地味に生きてきた感じの、つまり、いわゆる普通の。おじさん。本作は、彼の一瞬の恋愛と、同時期に起こった家族間のやり取りが描かれる。そんな、自分とは全くかけ離れた素性ではあるけれど、子供の頃思っていた大人って、自分がその歳になって気づく、全然大人じゃないじゃん子供じゃん、っていうのの未来形を見せられたかのような感覚に襲われた。

父親との関係、息子との関係、女性との関係、そのどれもが自分自身にも当てはまる、と思う。身内だからこそ言えない(言わない)言葉、自己保身かプライドか、傷つきたくがないゆえに言ってしまう言葉。あえて自分の中でさえ言語化しようとしない、感覚を感覚としてそのまま触れないでいたい箇所。そういうものがものすごくうまく描かれていたのではないだろうか。

言葉というのはもの凄く危うい。発した言葉は、言葉として独り歩きしてしまう。本心はそうじゃなかったの、行間を、言外を読んでほしかったの、というのは単なる甘えに過ぎない。だけど、その部分に甘えている人のなんと多いことか。本当に正確に伝えたいならば、誠心誠意言葉を尽くさなければならない。一方で、どんなに言葉をつくしたからといって100%は伝わらない。自分の中で言語化した瞬間から、齟齬は始まっているのだから仕方ない。どこに重きを置くのか。どこを自分の中で大切な部分と定義づけるのか。それによって、言葉として発する範囲と深さは変わってくる。

本作の登場人物たちは、言葉を正確に発していない。相手に届けようとしていない。曖昧な部分に生じる偶然性に成り行きをゆだねている。あるいは、そう意識さえしていないかもしれない。そういうところが、人間らしい部分ともいえる。そういうところが面白くありさえもする。だけど、それだけで日々を過ごしていたら、それはただの怠けであり甘えであるとも思う。偶発性に身をゆだねるのは、その覚悟をもってこそでありたいな、私は。

そうはいっても、感情が先を行き、ひねくれ心が邪魔をしてどうしてもそうあれない時だってある。そういうところが可愛くもあるよね(これってでもあくまで、神の視点で見たときの話だけど)。そういう意味では、この映画、原題の「愛されるためにここにいるわけではない」のほうが、ひねくれ感が出ていていいと思うんだけど。
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# by yebypawkawoo | 2008-08-21 23:29 | ◆映画のこと  

詰まらない日記

なんだか最近、本も映画もぴんとこない。
面白いと感じられない、なぜだ。
受容体が変容しているのかしらん、あるいはアンテナが折れているのかも。

最近見た映画
『ラストサムライ』 エドワード・ズウィック(2003)
→ いまいち。リアリティを追求してしまうと断然アウト。かといってフィクションには昇華しきれていない感。

『ふたりの5つの分かれ路』 フランソワ・オゾン(2004)

→ うーん。さかのぼっていく手法ということでいえば、エターナルサンシャインのが面白い。出会いがそれだったということが何だか私の中でひかかった、軽すぎる。悲しい気持ちになるだけだった。

『コーヒー&シガレッツ』 ジム・ジャームッシュ(2003)

→ 何これ、おしゃれ映画?複数の関係のない話を集めました、みたいなのはあまり好きではないようだ。

『フリー・ゾーン~明日が見える場所~』 アモス・ギタイ(2005)

→ わたしは中東の現状を知らない。でもこの映画をみたって、知りたいとは思えなかった。知らないな、と思っただけ。そういうのってこの種の映画としては全然だめだと思う。

『ぐるりのこと』 橋口亮輔(2008)
→ 期待しすぎたか?描きたいことはわかる、何があってもそれでゆらいでも受け入れ乗り越えて(飲み込んで)いく夫婦というのも、一つのきれいな形だと思う。だけど、それだけ。皆ある程度飲み下し受け入れやっていってるんだから。乗り越えてくるものはなかった、人が言うほどには。まったく関係のない、梨木香歩『ぐるりのこと』は断然良い。こちらのほうが数倍刺さった。

『それでもボクはやってない』 周防正行(2007)

→ 面白かったけど、ドラマ。2時間ドラマ。


選択が悪いのか、はたまた私の精神状態が悪いのか。後者の要因が大きかったのだとしても、それを打破して余りあるほどのものだってあるはずだ。ものすごく面白い、これぞ映画だという映画に出合いたい(あんまりないからこそ、見つけたとき嬉しいのだけどもね)。
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# by yebypawkawoo | 2008-08-19 00:01 | ◆映画のこと