21時、自由が丘で鳥良。

今日は、2時には寝よう。
と、帰宅した12時半に思う。それから、あっという間の55分。
初志貫徹すべし、あと15分でこれを書いて寝よう。
と、最初に時間の制限を表明の、現在時刻1時25分。

さて、鳥良です。
手羽先好きの私、世界の山ちゃんよりも、断然鳥良のが好き。
味付けが絶妙じゃないか。と思う。食べるたび思う。

今日は、そんな鳥良にて、いわゆるサシノミってやつを敢行して参りました。
それで思った。
私はやっぱり、大勢で飲むのよりも2人で(せめて3人までだな)の方が好き。断然好き。
なんてったって、自分がのびのびしてるのがわかるよね。

サシノミをするときは、その相手との距離感がものをいいます。
私の場合。
サシノミをするなら、これから知りたいと思う人がベスト。
まだそんなに親しくない、でももっとこの人のことを知ってみたい、そう思う人がいい。
だから、そういう人を選んで、飲みにいきましょうとお誘いします。あるいは、お誘いされます。

気の置けない子は、サシでも大勢でも、どんな場でも応用が聞くので何でもOK。汎用性あり。
ちょっと仲の良い子・あるいは知り合いレベルは、お互いの共通項がある程度構築されている分、サシだと間が持たない恐れあり。さらに、知り合ってからそれまでに、そこまで興味をそそられていないという点で、サシ時間がややつらくなる恐れあり。

だから断然、これから知りたいわん、開拓したいワンって子と飲みにいきたい。

そんな自由が丘21時。
今日は、転職後初の会社同僚とのサシノミでした。
平日21時の自由が丘は良いね。
新宿・渋谷なんかに比べて人が少ないし、
オフィス街じゃないので酔っ払いも疲れたoffice workerも見当たらない。
平日昼間のようにセレブ奥様もいなけりゃ、休日のようにかわいらしいカップルもいない。
どこか、どことなく、閑散とした雰囲気すら漂う。そんな21時の自由が丘。
クリスマス先取りか、輝くネオンがなんだかさびしい。そんな自由が丘の21時。

ロータリー側改札を抜け、まっすぐすすみ、ブックオフの真向かいに、鳥良はあります。
なんとなくぎくしゃくした往路はいつものこと、復路がどんな雰囲気になるかはその時々。
サシノミは、一対一で向き合わなきゃいけない、自分を隠せない怖さがあります。
集団だとふらっとどこかへ消えてみたり、影を薄くしたり、ひとりで周りを観察したり、
そういうことをして平気な人でも、あえてそのポジションを取る人だって、
サシとなるとそうはいかない。勝負札をきらなきゃいけない。相手も私も逃げられない。
それが面白くもある。その状況は集団だとなかなか得がたい。

そんなこんなであっという間の3時間。気づけば0時を回り、復路はなんだか2人楽しげな。
復路の雰囲気は、その時々。時には暗いし、時には苦いし、時には沈鬱だけど、
そのいろいろがまた面白い。これだからやっぱり飲むのは楽しいと思う。

さて、帰りは家まで約15分。帰宅して気づけばもう85分。2時前だ、もう寝なきゃ。
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# by yebypawkawoo | 2008-11-18 01:41 | ◆仕事のこと  

『アメリカの鱒釣り』・・・なんでアメリカの鱒釣りなの。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン
2008年11月14日読了


本作は、「アメリカの鱒釣り」にまつわる47の物語を納めた短編集だ。「アメリカの鱒釣り」は、意思を持っている。会話を交わし、返事をくれ、踊りを踊る。

アメリカの鱒釣り(Trout Fishing in America)とは、何を指しているのか?何で、ほかの何でもなくアメリカの鱒釣りだったんだろう?

ということが妙に気になった。ブローティガンを初めて読んだのは『西瓜糖の日々』で、そちらのほうが随分と読みやすかったし面白かった。本作は未だわかったような気にすらなれない。というか、「アメリカの鱒釣り」は、なんで「アメリカの鱒釣り」なの?そこにひかかって進めない。

以前、ブローティガンの研究をしている人と知り合い、何度か会う機会があったのだけど、あぁ、そのときはまだ本作を読んでいなかった私よ!その子はどういう研究をしていたのだろう。ブローティガンを研究するなんてすごく難しそうで面白そうだ。まずは、なんで鱒釣りなのかを私は突きつめたい。そして彼の人となりがもっと知りたい。

訳者藤本和子著『リチャ-ド・ブロ-ティガン』は、ずっと探しているのだけどまだ売っているのを発見したことがない。
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# by yebypawkawoo | 2008-11-15 01:10 | ◆本のこと  

朝起きれないこと。ドーナッツの穴が見えないこと。

うちの近所にはミスドがあって、朝の7時から開いています。朝のミスドには朝セットがあって、ドーナッツとコーヒーで300円。これは通常のミスドのコーヒー価格262円を考えると超お得。さらにこのセットの神髄は、コーヒーがお代わり自由なところにあるのであって、どうせ行くなら居座って2杯は飲みたい。いや、3杯はいきたい。そうじゃないとお得感が薄れます。

そんな貧乏症の私は毎晩寝る前に、明日は1時間早く起きてドーナッツとコーヒーと読書!という優雅な一日の始まりを想定しつつ目覚ましをセットします。村上春樹のようにオールドファッションとブラックコーヒーで一日をスタートさせたい。ダンキンドーナツは日本撤退してしまって久しいから、仕方ない、ミスドで我慢しよう。やれやれ。なんて呟きながら、コーヒー3杯のみたい。

のだけど。

なぜか、6時の目覚ましも、7時の目覚ましも鳴らない。これはどういうわけか。いつも私は、“自発的”に8時15分に目覚めます。自分で止めてるんだよ、なんていうよくある突っ込みは全く不要です。なぜなら、私には目覚ましを留めた記憶が本当に全くこれっぽっちもないんですから、私にとっての真実として目覚ましは鳴っていないんです。

かくして私の一日は、ささやかな望みがかなわなかった失望と、遅刻寸前(5日に1回は確定)という焦り(5日に1回は諦め)と、虚脱感と空腹感から始まります。1日がどんな風に過ぎてくかなんて言わずもがな。帰宅するころにはブラックホールのごとく、満員電車に渦巻く負の感情が吸い込まれてくるのです。そんな一日が、明日への過剰な期待とさらなる失望へとつらなっていく。負の連鎖。おそろしや。

誰か、きちんと鳴る目覚ましを私にくれないか、あるいは我が家の怠惰者を修理してくれまいか。来週こそは、週の始まり月曜日を香ばしいコーヒーの香とドーナツの穴とともに始めたい。負のループを抜け出したい。誰か、誰か私に救いの手を・・・。
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# by yebypawkawoo | 2008-11-14 23:45 | ◆日々のこと  

『イルカ』・・・っぽさ満開。

イルカ『イルカ』 よしもとばなな(文春文庫)
2008年11月10日読了


人生の位置を定めないという生き方。主人公のキミコは、自分の人生をそう評していて、あぁ私も、そういう生き方を目指しているのかもしれない、と思う。

でも“位置を定めない”の根拠は、すこうしずれているようにも感じます。
キミコは言います。
ここにいて、ここで暮らそう、ここに根をおろそう。どれだけ誘われただろう。恋愛に、友情に、場の力に、信仰に。そういう愛のこもった束縛に、どれだけ身をまかせたいと思いながらも去ってきただろう。私は、そこの持っている魔法が消えるのがわかっていてもそこに留まりたいほどに、その人たちを愛せる自信がなかった。何かが違うと思えば、去るしかなかった。

彼女の場合は、逃げでもあるように思うわけです。考えているようで、最終的な考察は放棄している。感覚に後付で言葉を足した感じがします。こういう気持ちもすごくわかるけど、それを言い訳にするのはずるくないでしょうか。私は、こういう心理的葛藤はもちろんありつつも、もっと単純にリセットしていく人生のほうが楽しそうじゃんーという根拠ももってます。新しい場所に向かい続ける、知らないものを知っていく、驚きとか共感が生まれていく、そういうことの繰り返しが面白いんじゃんか。

と、見解の違いはありつつ、でも私はこのお話結構好きです。下手さを装った文章の中に、やっぱり突き刺さってくる言葉とかがあるんだなぁ。

下手な感じとか、感覚を感覚として放置して論理的説明とか言語はあえて排除するとか、そういうよしもとばななっぽさは、本作でも満開です。こういう感覚を感覚として受け入れて納得しちゃうのは、女子ならではなような気もするのだけどどうでしょう?たぶん、読者それぞれ受け取っている内容はばらばらだったりするんだけど、この小説はそれを良しとしているのだろうなという気がします。そういう広い範疇で成り立つ言葉が選ばれている感じ。ばなな好きの男の子って、私はあんまり会ったことないんだけど、どうだろう?いるのかな。
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# by yebypawkawoo | 2008-11-10 23:56 | ◆本のこと  

『回転木馬のデッド・ヒート』・・・語られたがる話の処遇について

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)『回転木馬のデッドヒート』 村上春樹(講談社文庫)
2008年10月中旬読了


10月に本書を再読して、思うことがあった。それを携帯にメモしたまま、忘れ去っていた。こっちに日記を書いていて思い出したので、改めてここに記しておこうと思う。


私には、他人の話を収集していた時期がある。何年か前、私は意識的に、他人の家族の話を収集していたのだ。機会があれば耳を傾け記憶しようとしたし、わざわざ聞き出そうとさえした。さまざまな友人・知人の家族構成を、起こったエピソードを、それぞれの想いや憎しみやしがらみや、愛情を。そしてそれらは私の中にストックされた。『回転木馬のデッド・ヒート』を読みなおして思い出したのはそれらの存在だ。そして気づいた。それらのエピソードは、語れらたがっている。

村上春樹は言う。
どうしても僕の中に小説には使いきれない“おり”のようなものがたまってくる。僕がスケッチに使っていたのは、その“おり”のようなものだったのだ。そしてその”おり”は僕の意識の底で、何かしらの形を借りて語られる機会が来るのをじっと待ち続けていたのである。

この本は、そんな、村上春樹の中で語られる機会を待ち続けていた“おり”の願望を表象化したものだ。語られたがっていた彼らが語られた舞台だ。全8話からなる本書のそれぞれのエピソードは、現実にありえそうでありえなさそうな、絶妙な位置をキープしている。これらは本当に現実におこったことなのか、それとも創作なのか。それは作者ではない我々にはわからない。けれど、現実なのかもしれない、現実なんだろう、と思えてしまうかどうかが重要なのだと思う。少なくとも、私にとっては現実だ。事実、語られたがっている話は、私の中にもある。

他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。“おり”とはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。

確かにそうだ、結局はどこにも行けない。そこに思い至ってから、わたしは収集をやめた。収集は解決にはならないと気付いてから。「文章による自己表現は誰の精神をも開放しない」とは村上春樹の弁。精神解放のための文章ではない。語られたがっているから、語る。それだけだ。けれど、語った先には何かが融解するような気もするのだ。それが何かがまだ私にはわからない。

確かに、彼らは語られたがっている。私の中で無音の声をあげている。でも、まだ時期ではないと思う。さまざまな意味でまだ時期ではない。その先がまだ見えない。声が大きくなり、耳をふさげなくなる時がいつか来るんじゃないかと思う。その時には、語りたいと思う。どのような形でどのように語るのかはわからないけれど。あるいは、そのまま闇の中に葬られる可能性だってあるけれど。
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# by yebypawkawoo | 2008-11-07 02:15 | ◆本のこと  

『地下街の人びと』・・・39度の高熱をだしたときの、あの感じ。

地下街の人びと (新潮文庫)『地下街の人びと』 ジャック・ケルアック(新潮文庫)
2008年10月30日読了


訳者あとがきより
ケルアックは意識によることばの検閲を排除し、無意識の領域を掘り起こそうとする。ものすごい速度でタイプを叩きながら精神から湧き出ることばの泉を汲み取る。そしていったん記録されたものを決して推敲したりしない。

これを読んで納得。スピード感あふれる文章だった。というよりも、感覚、色彩とか触感とかそういう感覚が先行していくような文章。思考が文章に追いつけていないような、下り坂で走っていたらスピードがつきすぎて足が絡まっちゃって、でもそのまま走り続けてる、というような、そういう文章だと思った。

ビートニクと呼ばれていた人達の日常を描いた作品ということだけれど、1秒1秒の時間が濃い。主人公レオの視点を通してみる世界は、まるで魚眼レンズを覗き込んだようだ。ゆがんで膨張されて、個人の側にひどく偏っている。でもらりってるときってこんな感じ。高熱が出ているときの、あの感じ。ケルアック本人が、ドラッグをやりながら本作をかき上げたこととは無縁ではなかろう。

こういう作品を読むと、原文で読みたいと思う。訳者の訳はどこまで原文のリズムを語感を表現しているのだろうか?あるいは補強しているのだろうか?

途中で積読仲間入り中のバロウズ、『queer』も早く読まないと。
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# by yebypawkawoo | 2008-10-31 00:51 | ◆本のこと  

独り言(メモ)

「悪よりましだと思って偽善かもしれない善をふりまいている」と言い切る人がいた。

うわー目から鱗だ。

わたしはこれまで、
「偽善と思われるくらいなら悪だと思われたっていいや」という考えで、
もっと言えば、
「わかる人だけわかってくれればいいや。少なくとも私自身はわかってるし、自分に恥ずかしくはないし」という考えで、押し通してきていたから。

偽善と思われてもいい、
という考え方には思い至らなかった。
うわー愕然。

だって、その考え方を元にしても最終的な自分の着地点=他人にどう思われたっていいや以下、は変わらないわけだよ。

であれば、行動そのものが引き起こす結果をもっと重視すべきなんじゃないか。
とすれば、善であろうとすること、そういう行動をとることのほうが、いいんじゃね?
とも思う。

そこまで思い至らなかった理由もあるといえばあるのだけど、今にして思えば言い訳に聞こえるなぁ。
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# by yebypawkawoo | 2008-10-18 17:37  

『異邦人』・・・自分に対して誠実で正直であることを、選びとる過程が抜けている。

異邦人 (新潮文庫)『異邦人』 カミュ(新潮文庫)
2008年10月10日読了


あぁ、私は異邦人だなぁと思う。私は、他人に迎合してうまく取りつくろっているだけじゃんと思われるくらいなら、ムルソーのように自分に正直で誠実であることで死刑となるほうを選びたい。ムルソーは何の悪気もなく、自分に対して誠実であるだけで、おそらくそれは他人に対してもそうなんだと思う。あくまで彼の考える誠実、だが。

ママンの死に涙せず、マリイに愛してる?と聞かれ「それは何の意味もないことだが、おそらく愛していないと思われる」と答える。正直なのだ、そして誠実なのだ。それだけだ。

―結局において、ひとが慣れてしまえない考えなんてものはないのだ
―私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう


この一歩退いた視点と、達観したかのような態度が、おそらく周りの人々の気に入らないのだ。

真実なんていくつでもあって、物事の破片破片に紛れているものだから、それを取り出して、少し加工し、個々人の価値観に合わせ(るように見せかけ)てやれば、それだけで誰もが安堵するのに。ムルソーはそれをしない。それをしようという発想がそもそもない。たぶん、面倒くさいんだ。それをすることに、常人以上に労力を使う人なのだ、たぶん。真実はわずかな一片だけを取り出せば、偽りになる。みんな、自分の好きなように解釈するから。消極的な嘘。だけど綿は、それで作られた幻影の私を、自分の中に見られるのは嫌だ。だから、積極的にあえて何も言わない、そういう選択肢だってある。

人は、解釈できない事実を突きつけられると混乱し、嫌な気分になるので、蓋をする。そういう厭らしさって、たぶん誰でも少しはもっている気がする。ムルソーのように蓋をされる道を選ぶということは、絶望でも無気力でもない。積極的に正直なのだと思う。

だけど、彼は非常に独りよがりでもある。ここまで、自己完結してしまうと、他人の入る余地がない。だから、周囲の視点に立つと非常に寂しく感じる。結局ムルソーは、自己中なんだ。自分に誠実だけれど、他人に対して誠実ではない。今度は、他人の視点から見る誠実。あそっか、つまり私もそういうことか。

他人がどう考えるかということを常に念頭に置き意識した上で選択したムルソーの行動とは思えない。そこが、私が唯一彼に対し、残念ね、と思う点(他人に対しては客観的になれる)。どこまでいっても、例え最終日に大勢の見物人が憎悪を持って彼を迎えたとしても、自分の視点のうちにとどまっている限り、あなたはきっと孤独だよ、ムルソー。
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# by yebypawkawoo | 2008-10-15 23:50 | ◆本のこと  

『ラスト、コーション』・・・偽りの中で生まれてしまった愛情も、本物だと思う。

ラスト、コーション『ラスト、コーション』 アン・リー(2007)
2008年9月21日鑑賞


『ラスト、コーション』で描かれるのは、トニー・レオンとタン・ウェイ演じる二人の、恋愛ごっこだ。二人の間にあるのは、異様な状況から生まれた仮初の恋愛だ。だけど、壮大で真剣で命がけなそのごっこ遊びの、嘘くささの中に飲み込まれていく二人の間には、確実に愛が存在したのだと思う。偽りの愛だったのだとしてもそれはそれそれとして本物だ。

恋愛は、その状況に酔っていく、というようなところがあると思う。なにも変わり映えしない平凡なシチュエーションが続くという状態では、長続きしないんじゃないだろうか。自分と相手の二人では成り立たなくて、自分と相手とそれを取り巻く状況の3者があってこそ成り立つ。状況が、非常であればあるほど、興奮は大きくなる。

恋愛は、執着だと思う。相手に対する執着心が、恋愛の興奮をさらに助長するのだと思う。そして執着は思い込みだ。自分を非現実の妄想の世界へと追い込んでいく、その過程が狂気だ。だけど、穏やかな恋愛こそが最高だ、なんていう人を私は信じない。表面上穏やかでも、内心に狂気をはらんでしまうのが、本物なんじゃないかという気がする。人は、恋愛初期のときめきが7カ月しか持続しない、という話を聞いたことがある。毎日晴天の恋愛ならば、さもありなん。穏やかに見えても、内情は怒涛の嵐だという状況が、恋愛を長続きさせるんじゃないかだろうか。

その上で、恋愛に常に必要なのは、客観的視点だ。そんな暴風雨に飲み込まれている自分を、雲上の安全地帯から眺めるもう一人の我を常に持っていたい。そして、相手に接するときは、雲上の自分を持ってくるのだ。内に嵐を秘めた状態で。時に決壊する堤防は、もしかしたら、大地に肥沃をもたらすという意味で重要な場合もある。雨降って地固まるとはよくいった話。

『ラスト、コーション』は恋愛ドラマだ。トニー・レオンとタン・ウェイの二人が演じる男女の、駆け引きと、嵐と、堤防の決壊を描いた物語だ。二人はその異様な状況に、それぞれ確実に酔っていたし、だからこそあれだけの激しさで惹かれあったのだと思う。雲上からそれぞれを見落ろしているつもりで、気付かないうちに落下していたのはお互い様だ。ラストの、宝石屋さんでのシーン。そこでお互いが、嵐の中に落ちていたことに気づいてしまうのだ。切ない。

タン・ウェイの、強い信念を持って一途に職務を全うする中で植えつけられた憎悪と、それに抗うように無意識に発生してくる愛情との駆け引き。そしてトニー・レオンの抱える圧倒的な虚無感や冷徹さと、非常に純真無垢ともいえる愛情との対比。凄い。その軸を支える、細かな描写もうまいなぁと思う。二人の絡み合うシーンや、女たちの麻雀シーンや。話題となったベッドシーンも、厭らしさは感じなかった。痛々しく、美しかった。
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# by yebypawkawoo | 2008-10-15 23:49 | ◆映画のこと  

アルフとは、Alien Life Form(地球外生命)の略。


 以前のエントリで、海外ドラマ『アルフ』のことを、
 間違って『アルフィー』と書いたのは、私です。

 そのことを指摘され、あわわと恥ずかしい気分になって、
 やぶれかぶれでもう一度『アルフ』が見たくなった。
 こんな、うわぁはずかしっ!て時でもアルフなら、
 「はっはっは~」って軽快に笑い飛ばすに違いない。



「はっはっは~」
この、こ憎たらしいキャラ、実生活でもどっかで見た気がすんなぁ。



うわーん、なつかしい。
アルフと言えば、所ジョージの声とオープニング曲。英語版ではダメなのだ。
日本語版は、希望する声の多さにも関わらずビデオ・DVD化されていないし、もう見ることはできないかと思ってました。らば、なんとタイムリー、ちょうど10月から、NHKで再放送やってるみたい。
誰か、ひきつづきyoutubeあげてくれないかな。世の中便利になりました。
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# by yebypawkawoo | 2008-10-13 23:38 | ◆日々のこと