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自分マーケティングだなんて、いつの話だよ。

今日は会社の飲み会。新しく入社した人の歓迎会でした。

その席で、なんとなく映画の話になる。ストレス発散法が話題となり、誰かが映画を借りて泣くことだ、といったのだ。だけど、映画の泣きポイントって人によってかなり違うよね。“私は『おくりびと』で大号泣だった”、という人がいれば、一方“一切泣けなかった”と言う人もいるし。(私は、まだ見てない)。悲しい話で泣くんだという人がいれば、親子ものに弱い人、幸せな未来像を見て泣く人(これは私には理解できない)、などなど、おお!なんと多種多様。

私にとっての映画の泣きポイントって何だろう?と考えた。考えて、結論。「わたしのことわかってくれない」だ、きっと。“誰も私のことなんてわかってくれないのよ”、とか、“真意は別にあるのに周囲に理解されない主人公というシチュエーション”とか。これ、かなり私の泣きポイントです。自分は承認欲求が強い、とは思っていたけれど、我ながら本当に強いのだなぁと思う。周りにこう言う人がいたら、あぁなんか成長過程でいろいろあったのかしらね、とか親子関係うまくいってなかったのかもね、とか思うだろうなー他人事として。いやいや自分のことですから、と自分につっこみ。

承認欲求の強さに加えて、おそらく、他人は私のことなんて分かってくれないのよ、なんて(そんなのごくごく当たり前の前提ではあるけれど、もっと自虐的かつ自意識過剰気味に)思っていて、理解してほしいと願っていて、でもどうせ理解なんてしてくれないよね(と、これまた自己中心的に・・・なんか気持ち悪い人だな、私)思ってるのだろうね。だからこそ、そういう主人公に共感して涙するのよね。

でも、ここで思い起こしてみよう。理解してほしい→理解してくれないの、この→部分。この移行の過程で、じゃあ私は他人に理解してもらおうとする行動をとっているのでしょうか?
答えは、否。とってないわけです。確信的にとっていない。とろうとしていない。そのくせ、理解してくれないよね、と自分をかわいそうぶっているこんな自分、いやー本当に気持ちわるーいー。


ここで思い出すのは、地方産業に従事するおじいちゃんおばあちゃんです。産業が発展しないと悩む田舎で往々にしてあるのが、マーケティング下手。いい物作ってれば必ず売れる、とかたくなに信じ、ひょっとしたら売り込みをすること自体が恥ずかしいとすら思っている場合もあり、、マーケティングという概念自体が存在しない、そんな田舎です。私が以前勤めていた会社は、そんな地方の活性化のために、いい物作ってるんだからもっとアピールしないと誰も知ってくれない=買ってくれないよ?と、マーケティングの概念を持ち込み、効果的に宣伝し、売れる仕組みを作る、というコンサルティング事業をやっていた。

こういう話はよくあることで、たとえば最近私が仕事でかかわっている、中小工務店にも多い。俺はいい家つくってんだよ、と職人かたぎのてやんでぇべらぼうめぇ気質の皆様。いい家作ればそれでいんだよ、と、宣伝のうまい大手ハウスメーカーに顧客を取られ、実はそんない技術力の高くない工務店との違いは、一般消費者には伝わらず・・・。この御時世、このままでは淘汰されちゃいますよ?ていう話なわけです。
せっかく、すごーくいい家を。そこらの大手デベにも負けないいい家をつくってるんだから、それをきちんと消費者に伝えようと努力しないとダメなんですよ、大将。知ってもらって、使ってもらって、初めていい家と認めてもらえるんだから。

あれあれ、これって人間も・・・?

自分マーケティングって言葉、何か一昔前に聞いたことある気がする、なんか、マーケティングブームってなかった?恋愛マーケティングとか、なんでもマーケってつけりゃあいいと思ってんでしょ?って題名の本が本屋にあふれた時あったよね。立ち読みしながら、なんだよこのタイトルって、思ったもんね、私。

でも、自分マーケティング、必要なのでは?と改めて思ってみる。マーケティングというか、つまり、自分のことを他人に伝えようとする意思と、技術(伝える人、伝え方、伝える場所の選定技術とかとか)が、やっぱりなんだかんだ重要なのかもね、と思ってみる。

どうせ言ったって、他人には伝わらないよと、いつも最初からあきらめてしまう私は、そんなこっ恥ずかしいことを飲みながら考えていたのでした。(言ったって他人に伝わらない、というよりは、言ったって、言葉を介してしまうことで他人には自分の本意が正確なニュアンスで伝わりえないから、それで誤解が生まれるくらいなら最初から何も伝えないほうがいい、というほうがより正確なのだけれど、いずれにしても、だ。)
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by yebypawkawoo | 2009-06-19 02:15 | ◆考えたこと  

繰り返す西瓜

ここ最近、夜ごはんがスイカだ。

終電帰りが続き、夜中ともなるとお腹もすいたを通り越して、
やや気持ち悪くもあり、でも何か食べたい。
そういうわけで、帰り道にあるスーパーで、
スイカの小分けパック(切り分けてあるやつ)を買って、
帰って食べるのが恒例となっている。

久しぶりに昼間にスーパーに寄った日曜日、
思い立って、1/4カットのスイカを買ってみた。
これなら、毎晩真夜中にスーパーによる必要がなくなる。
それで、翌月曜日の今日、
早速、買ってきたスイカを切り分けてかぶりついてみたのだ。

なんていうか、すごいノスタルジーに襲われて、まいった。
縁側で風を感じながら、むわっと湿った暑い空気の中で
スイカにかぶつく自分が浮かび上がってきたのだ。
それはもう鮮明に。蝉の声まで。

そういえば、あの肌にまつわりつくような夏の熱気を
感じなくなって何年たつのだろう。
昼間はクーラーの効いたオフィスにこもり、外に出るのは朝と夜中だけ。
こういう生活が日常と化している今、
あの夏の日は、それが日常となることは、
私にはもう来ないのかもしれないと、突如として思う。

過ぎた日は戻ってこないのだ。
それは時間という意味だけではなく、物理的なものとして、そうなのだ。
あの子供だった私の目線から見上げた緑の濃い木々はもうないのだと、
扇風機とうちわで過ごし、タオルケットで昼寝をして、畳の後がほおにつく自分はもういないのだと、
こんなデフォルトされたいわゆる典型的な日本の夏が
実際の私の経験として存在していたものが、
お話の中だけのものとなってしまうのだろうか。

あるいは、本当にそれらは私の経験だったのだろうか。
私のイメージが作りげた虚構ではないのか、そんな気さえしてくる。

これから先、積極的に形作っていかない限り、
繰り返すことはない光景のなんと多いことか。
子供時代に経験したあの日々は、この東京で当たり前に生活していたら、
ただの記憶と化してしまう日々なのだと気付く。

メビウスの輪がほどけた。
意識しない限り、ふたたび結びつくことはないのではないかと、
なぜかしら焦燥に駆られる。
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by yebypawkawoo | 2009-06-08 20:48 | ◆考えたこと