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宣言。

なんだか最近太ってきたので、減量にはげもう。

と決意。
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by yebypawkawoo | 2008-11-23 21:51 | ◆日々のこと  

21時、自由が丘で鳥良。

今日は、2時には寝よう。
と、帰宅した12時半に思う。それから、あっという間の55分。
初志貫徹すべし、あと15分でこれを書いて寝よう。
と、最初に時間の制限を表明の、現在時刻1時25分。

さて、鳥良です。
手羽先好きの私、世界の山ちゃんよりも、断然鳥良のが好き。
味付けが絶妙じゃないか。と思う。食べるたび思う。

今日は、そんな鳥良にて、いわゆるサシノミってやつを敢行して参りました。
それで思った。
私はやっぱり、大勢で飲むのよりも2人で(せめて3人までだな)の方が好き。断然好き。
なんてったって、自分がのびのびしてるのがわかるよね。

サシノミをするときは、その相手との距離感がものをいいます。
私の場合。
サシノミをするなら、これから知りたいと思う人がベスト。
まだそんなに親しくない、でももっとこの人のことを知ってみたい、そう思う人がいい。
だから、そういう人を選んで、飲みにいきましょうとお誘いします。あるいは、お誘いされます。

気の置けない子は、サシでも大勢でも、どんな場でも応用が聞くので何でもOK。汎用性あり。
ちょっと仲の良い子・あるいは知り合いレベルは、お互いの共通項がある程度構築されている分、サシだと間が持たない恐れあり。さらに、知り合ってからそれまでに、そこまで興味をそそられていないという点で、サシ時間がややつらくなる恐れあり。

だから断然、これから知りたいわん、開拓したいワンって子と飲みにいきたい。

そんな自由が丘21時。
今日は、転職後初の会社同僚とのサシノミでした。
平日21時の自由が丘は良いね。
新宿・渋谷なんかに比べて人が少ないし、
オフィス街じゃないので酔っ払いも疲れたoffice workerも見当たらない。
平日昼間のようにセレブ奥様もいなけりゃ、休日のようにかわいらしいカップルもいない。
どこか、どことなく、閑散とした雰囲気すら漂う。そんな21時の自由が丘。
クリスマス先取りか、輝くネオンがなんだかさびしい。そんな自由が丘の21時。

ロータリー側改札を抜け、まっすぐすすみ、ブックオフの真向かいに、鳥良はあります。
なんとなくぎくしゃくした往路はいつものこと、復路がどんな雰囲気になるかはその時々。
サシノミは、一対一で向き合わなきゃいけない、自分を隠せない怖さがあります。
集団だとふらっとどこかへ消えてみたり、影を薄くしたり、ひとりで周りを観察したり、
そういうことをして平気な人でも、あえてそのポジションを取る人だって、
サシとなるとそうはいかない。勝負札をきらなきゃいけない。相手も私も逃げられない。
それが面白くもある。その状況は集団だとなかなか得がたい。

そんなこんなであっという間の3時間。気づけば0時を回り、復路はなんだか2人楽しげな。
復路の雰囲気は、その時々。時には暗いし、時には苦いし、時には沈鬱だけど、
そのいろいろがまた面白い。これだからやっぱり飲むのは楽しいと思う。

さて、帰りは家まで約15分。帰宅して気づけばもう85分。2時前だ、もう寝なきゃ。
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by yebypawkawoo | 2008-11-18 01:41 | ◆仕事のこと  

『アメリカの鱒釣り』・・・なんでアメリカの鱒釣りなの。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン
2008年11月14日読了


本作は、「アメリカの鱒釣り」にまつわる47の物語を納めた短編集だ。「アメリカの鱒釣り」は、意思を持っている。会話を交わし、返事をくれ、踊りを踊る。

アメリカの鱒釣り(Trout Fishing in America)とは、何を指しているのか?何で、ほかの何でもなくアメリカの鱒釣りだったんだろう?

ということが妙に気になった。ブローティガンを初めて読んだのは『西瓜糖の日々』で、そちらのほうが随分と読みやすかったし面白かった。本作は未だわかったような気にすらなれない。というか、「アメリカの鱒釣り」は、なんで「アメリカの鱒釣り」なの?そこにひかかって進めない。

以前、ブローティガンの研究をしている人と知り合い、何度か会う機会があったのだけど、あぁ、そのときはまだ本作を読んでいなかった私よ!その子はどういう研究をしていたのだろう。ブローティガンを研究するなんてすごく難しそうで面白そうだ。まずは、なんで鱒釣りなのかを私は突きつめたい。そして彼の人となりがもっと知りたい。

訳者藤本和子著『リチャ-ド・ブロ-ティガン』は、ずっと探しているのだけどまだ売っているのを発見したことがない。
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by yebypawkawoo | 2008-11-15 01:10 | ◆本のこと  

朝起きれないこと。ドーナッツの穴が見えないこと。

うちの近所にはミスドがあって、朝の7時から開いています。朝のミスドには朝セットがあって、ドーナッツとコーヒーで300円。これは通常のミスドのコーヒー価格262円を考えると超お得。さらにこのセットの神髄は、コーヒーがお代わり自由なところにあるのであって、どうせ行くなら居座って2杯は飲みたい。いや、3杯はいきたい。そうじゃないとお得感が薄れます。

そんな貧乏症の私は毎晩寝る前に、明日は1時間早く起きてドーナッツとコーヒーと読書!という優雅な一日の始まりを想定しつつ目覚ましをセットします。村上春樹のようにオールドファッションとブラックコーヒーで一日をスタートさせたい。ダンキンドーナツは日本撤退してしまって久しいから、仕方ない、ミスドで我慢しよう。やれやれ。なんて呟きながら、コーヒー3杯のみたい。

のだけど。

なぜか、6時の目覚ましも、7時の目覚ましも鳴らない。これはどういうわけか。いつも私は、“自発的”に8時15分に目覚めます。自分で止めてるんだよ、なんていうよくある突っ込みは全く不要です。なぜなら、私には目覚ましを留めた記憶が本当に全くこれっぽっちもないんですから、私にとっての真実として目覚ましは鳴っていないんです。

かくして私の一日は、ささやかな望みがかなわなかった失望と、遅刻寸前(5日に1回は確定)という焦り(5日に1回は諦め)と、虚脱感と空腹感から始まります。1日がどんな風に過ぎてくかなんて言わずもがな。帰宅するころにはブラックホールのごとく、満員電車に渦巻く負の感情が吸い込まれてくるのです。そんな一日が、明日への過剰な期待とさらなる失望へとつらなっていく。負の連鎖。おそろしや。

誰か、きちんと鳴る目覚ましを私にくれないか、あるいは我が家の怠惰者を修理してくれまいか。来週こそは、週の始まり月曜日を香ばしいコーヒーの香とドーナツの穴とともに始めたい。負のループを抜け出したい。誰か、誰か私に救いの手を・・・。
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by yebypawkawoo | 2008-11-14 23:45 | ◆日々のこと  

『イルカ』・・・っぽさ満開。

イルカ『イルカ』 よしもとばなな(文春文庫)
2008年11月10日読了


人生の位置を定めないという生き方。主人公のキミコは、自分の人生をそう評していて、あぁ私も、そういう生き方を目指しているのかもしれない、と思う。

でも“位置を定めない”の根拠は、すこうしずれているようにも感じます。
キミコは言います。
ここにいて、ここで暮らそう、ここに根をおろそう。どれだけ誘われただろう。恋愛に、友情に、場の力に、信仰に。そういう愛のこもった束縛に、どれだけ身をまかせたいと思いながらも去ってきただろう。私は、そこの持っている魔法が消えるのがわかっていてもそこに留まりたいほどに、その人たちを愛せる自信がなかった。何かが違うと思えば、去るしかなかった。

彼女の場合は、逃げでもあるように思うわけです。考えているようで、最終的な考察は放棄している。感覚に後付で言葉を足した感じがします。こういう気持ちもすごくわかるけど、それを言い訳にするのはずるくないでしょうか。私は、こういう心理的葛藤はもちろんありつつも、もっと単純にリセットしていく人生のほうが楽しそうじゃんーという根拠ももってます。新しい場所に向かい続ける、知らないものを知っていく、驚きとか共感が生まれていく、そういうことの繰り返しが面白いんじゃんか。

と、見解の違いはありつつ、でも私はこのお話結構好きです。下手さを装った文章の中に、やっぱり突き刺さってくる言葉とかがあるんだなぁ。

下手な感じとか、感覚を感覚として放置して論理的説明とか言語はあえて排除するとか、そういうよしもとばななっぽさは、本作でも満開です。こういう感覚を感覚として受け入れて納得しちゃうのは、女子ならではなような気もするのだけどどうでしょう?たぶん、読者それぞれ受け取っている内容はばらばらだったりするんだけど、この小説はそれを良しとしているのだろうなという気がします。そういう広い範疇で成り立つ言葉が選ばれている感じ。ばなな好きの男の子って、私はあんまり会ったことないんだけど、どうだろう?いるのかな。
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by yebypawkawoo | 2008-11-10 23:56 | ◆本のこと  

『回転木馬のデッド・ヒート』・・・語られたがる話の処遇について

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)『回転木馬のデッドヒート』 村上春樹(講談社文庫)
2008年10月中旬読了


10月に本書を再読して、思うことがあった。それを携帯にメモしたまま、忘れ去っていた。こっちに日記を書いていて思い出したので、改めてここに記しておこうと思う。


私には、他人の話を収集していた時期がある。何年か前、私は意識的に、他人の家族の話を収集していたのだ。機会があれば耳を傾け記憶しようとしたし、わざわざ聞き出そうとさえした。さまざまな友人・知人の家族構成を、起こったエピソードを、それぞれの想いや憎しみやしがらみや、愛情を。そしてそれらは私の中にストックされた。『回転木馬のデッド・ヒート』を読みなおして思い出したのはそれらの存在だ。そして気づいた。それらのエピソードは、語れらたがっている。

村上春樹は言う。
どうしても僕の中に小説には使いきれない“おり”のようなものがたまってくる。僕がスケッチに使っていたのは、その“おり”のようなものだったのだ。そしてその”おり”は僕の意識の底で、何かしらの形を借りて語られる機会が来るのをじっと待ち続けていたのである。

この本は、そんな、村上春樹の中で語られる機会を待ち続けていた“おり”の願望を表象化したものだ。語られたがっていた彼らが語られた舞台だ。全8話からなる本書のそれぞれのエピソードは、現実にありえそうでありえなさそうな、絶妙な位置をキープしている。これらは本当に現実におこったことなのか、それとも創作なのか。それは作者ではない我々にはわからない。けれど、現実なのかもしれない、現実なんだろう、と思えてしまうかどうかが重要なのだと思う。少なくとも、私にとっては現実だ。事実、語られたがっている話は、私の中にもある。

他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。“おり”とはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。

確かにそうだ、結局はどこにも行けない。そこに思い至ってから、わたしは収集をやめた。収集は解決にはならないと気付いてから。「文章による自己表現は誰の精神をも開放しない」とは村上春樹の弁。精神解放のための文章ではない。語られたがっているから、語る。それだけだ。けれど、語った先には何かが融解するような気もするのだ。それが何かがまだ私にはわからない。

確かに、彼らは語られたがっている。私の中で無音の声をあげている。でも、まだ時期ではないと思う。さまざまな意味でまだ時期ではない。その先がまだ見えない。声が大きくなり、耳をふさげなくなる時がいつか来るんじゃないかと思う。その時には、語りたいと思う。どのような形でどのように語るのかはわからないけれど。あるいは、そのまま闇の中に葬られる可能性だってあるけれど。
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by yebypawkawoo | 2008-11-07 02:15 | ◆本のこと