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私は決して、冷静な人間ではないけれども

今日の東京は、ものすごい雨。
東横線も目黒線も落雷の影響でとまってしまい、帰れぬ私は濡れ鼠。

よくよく聞けば、目黒線は奥沢まで運転してるらしく、こんなに人のいない交差点は初めて見た渋谷から、目黒経由、東急目黒線にのりました。時を同じく、東横線が各停で運転再開されたとの放送がある。二子玉川方面に行きたい人は、大岡山経由大井町線、自由が丘乗り換えで東横線に乗れとのアナウンス、と同時に、終電は駅係員に聞いてねと、なんとも無責任な目黒線は運転手の言葉。

そう、つまり割と満員の電車の中は、雨に打たれてずぶぬれ(傘さしてたってあんまり意味はなかった)の、終電に乗れるか乗れないか瀬戸際の、誰もが口にはださねど焦っている、そんな前提条件がそろっていました。

さて、停まったのは武蔵小山駅。

聞こえてくるのは若い男の子の怒声と、ぱこっという鈍い音、続けて「ケンカです」という若い女性の声。ほんとね、見えないけど、ぱこぱこいってるの、取っ組み合いの殴りあってるみたい。心なしか若干人の波が押し寄せて、たぶん避けてんだね。駆け寄る駅員さん、引き離される男性、電車から一人が引きずり出されて、窓から見えるのはまだあどけなさの残る男の子、のゆがんだ顔。と、叫び声、いや叫んでいるゆがんだ顔。もちろん、BGMは絶え間ない怒声。行ってることは支離滅裂。よくある話、自分の感情がすでに完全に抑えられていない状態。

それで、その時の車内の雰囲気。これが、最悪でした。

「東横の最終乗りたいんだけどー」若い女性。「みっともない降りてやれば」中年男性。「みんな迷惑なんだけど」若い男性。口々に文句を言いだした。助言でも、場を(問題を)解決する言葉でもなく、ただ自分の感情を口に出してるだけ、に聞こえた。それに、この興奮した男の子二人に、そんないらだった声でいたって、余計興奮させる、火に油なだけだよ。

一方私は私で、野次馬根性丸出し、座った座席から窓の外を覗き込んでた。誰だ?どんな顔してんだ?こんなに感情むき出しにできる人ってのは?ある意味客観的、いらだちとは無縁。でもそれは、ひょっとしたら、この電車に乗れたからには確実に家には帰れる私の、状況が生む余裕、ただそれだけだったのかもしれない。

冷静な人間というのは、余裕のある時に冷静であるではなく、
余裕のない時にこそ冷静であれる人のことを指すのだと思う。

たとえば今日であれば、もうどうしたってたぶん、この興奮した二人組は収まらないから、無理やりにでも引き剥がして、別々の車両に押し込む、とかさ。文句いたって、それは全然意味ない、というよりむしろ、周りの人への不快感を生んでいるという点で悪。

状況をいつでも、客観視できること、というのは冷静であるための一条件?
自分も含めて客観視できること。いや、というより、自分と含む周辺環境を見つめる天からの視点を常にもっていること。自分の行動を起こしたその瞬間に、他人の目で自分を見ること。同時並行に起こり、瞬時に判断し、その瞬間に行動に移す。

私は決して冷静な人間ではないけれども、自分を見つめる他人のような自分の目を意識したことが、何度かある。それは意識的なものではなく、ふとした瞬間に訪れる、一つの感覚だ。この感覚をいつでも発動できるように、なれればなぁ。


さて、濡れネズミの私。
今日行った飲み会で、「雨ひどかった?どのくらいぬれたの?」と聞かれ、「服の中までびちょびちょです」、と答えたらば喜ばれた。

酒の席での下ネタは、冷静さとは無縁の話?
それとも、意識的冷静さ欠如であると言い張るのか。
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by yebypawkawoo | 2008-08-30 01:30 | ◆日々のこと  

『愛されるために、ここにいる』・・・言葉の危うさを思う。

愛されるために、ここにいる『愛されるために、ここにいる』 ステファン・ブリゼ(2005)
2008年8月21日鑑賞


うーん、面白い。パトリック・シェネ演じる主人公は50歳過ぎたおじさん。別に格好良くもないし、地道に地味に生きてきた感じの、つまり、いわゆる普通の。おじさん。本作は、彼の一瞬の恋愛と、同時期に起こった家族間のやり取りが描かれる。そんな、自分とは全くかけ離れた素性ではあるけれど、子供の頃思っていた大人って、自分がその歳になって気づく、全然大人じゃないじゃん子供じゃん、っていうのの未来形を見せられたかのような感覚に襲われた。

父親との関係、息子との関係、女性との関係、そのどれもが自分自身にも当てはまる、と思う。身内だからこそ言えない(言わない)言葉、自己保身かプライドか、傷つきたくがないゆえに言ってしまう言葉。あえて自分の中でさえ言語化しようとしない、感覚を感覚としてそのまま触れないでいたい箇所。そういうものがものすごくうまく描かれていたのではないだろうか。

言葉というのはもの凄く危うい。発した言葉は、言葉として独り歩きしてしまう。本心はそうじゃなかったの、行間を、言外を読んでほしかったの、というのは単なる甘えに過ぎない。だけど、その部分に甘えている人のなんと多いことか。本当に正確に伝えたいならば、誠心誠意言葉を尽くさなければならない。一方で、どんなに言葉をつくしたからといって100%は伝わらない。自分の中で言語化した瞬間から、齟齬は始まっているのだから仕方ない。どこに重きを置くのか。どこを自分の中で大切な部分と定義づけるのか。それによって、言葉として発する範囲と深さは変わってくる。

本作の登場人物たちは、言葉を正確に発していない。相手に届けようとしていない。曖昧な部分に生じる偶然性に成り行きをゆだねている。あるいは、そう意識さえしていないかもしれない。そういうところが、人間らしい部分ともいえる。そういうところが面白くありさえもする。だけど、それだけで日々を過ごしていたら、それはただの怠けであり甘えであるとも思う。偶発性に身をゆだねるのは、その覚悟をもってこそでありたいな、私は。

そうはいっても、感情が先を行き、ひねくれ心が邪魔をしてどうしてもそうあれない時だってある。そういうところが可愛くもあるよね(これってでもあくまで、神の視点で見たときの話だけど)。そういう意味では、この映画、原題の「愛されるためにここにいるわけではない」のほうが、ひねくれ感が出ていていいと思うんだけど。
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by yebypawkawoo | 2008-08-21 23:29 | ◆映画のこと  

詰まらない日記

なんだか最近、本も映画もぴんとこない。
面白いと感じられない、なぜだ。
受容体が変容しているのかしらん、あるいはアンテナが折れているのかも。

最近見た映画
『ラストサムライ』 エドワード・ズウィック(2003)
→ いまいち。リアリティを追求してしまうと断然アウト。かといってフィクションには昇華しきれていない感。

『ふたりの5つの分かれ路』 フランソワ・オゾン(2004)

→ うーん。さかのぼっていく手法ということでいえば、エターナルサンシャインのが面白い。出会いがそれだったということが何だか私の中でひかかった、軽すぎる。悲しい気持ちになるだけだった。

『コーヒー&シガレッツ』 ジム・ジャームッシュ(2003)

→ 何これ、おしゃれ映画?複数の関係のない話を集めました、みたいなのはあまり好きではないようだ。

『フリー・ゾーン~明日が見える場所~』 アモス・ギタイ(2005)

→ わたしは中東の現状を知らない。でもこの映画をみたって、知りたいとは思えなかった。知らないな、と思っただけ。そういうのってこの種の映画としては全然だめだと思う。

『ぐるりのこと』 橋口亮輔(2008)
→ 期待しすぎたか?描きたいことはわかる、何があってもそれでゆらいでも受け入れ乗り越えて(飲み込んで)いく夫婦というのも、一つのきれいな形だと思う。だけど、それだけ。皆ある程度飲み下し受け入れやっていってるんだから。乗り越えてくるものはなかった、人が言うほどには。まったく関係のない、梨木香歩『ぐるりのこと』は断然良い。こちらのほうが数倍刺さった。

『それでもボクはやってない』 周防正行(2007)

→ 面白かったけど、ドラマ。2時間ドラマ。


選択が悪いのか、はたまた私の精神状態が悪いのか。後者の要因が大きかったのだとしても、それを打破して余りあるほどのものだってあるはずだ。ものすごく面白い、これぞ映画だという映画に出合いたい(あんまりないからこそ、見つけたとき嬉しいのだけどもね)。
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by yebypawkawoo | 2008-08-19 00:01 | ◆映画のこと  

『ブルークラッシュ』・・・ただサーフィンを描くためだけの映画、けれどそこには。

ブルークラッシュ『ブルークラッシュ』 ジョン・ストックウェル(2002)
2008年8月5日鑑賞


最高に格好いい!!サーフィンってやっぱり格好いい!
これは、何か難しいこととか、複雑なこととかを全く考えずに見るべき映画だ。
パイプラインのあの波を、目を耳を、彼女達を通してただただ体感する映画だ。

経験者ならきっと、波にうまく乗れた時のあの征服感とか、波に巻き込まれたときの圧迫感とか恐怖、そして水の圧倒的な存在感、そういうものがザワザワとぞくぞくと蘇ってくる。ストーリーが難しすぎず、でも作られ過ぎていなくて現実的なのがいい。これは明らかに、サーフィンをとった映画だし、そのためだけの映画だと思う。

メイキングで、“こんなに応援しあうスポーツは他にない”、という言葉が監督の口から出てくるのだけど、最後のシーン、主人公アン・リーを全員が一体となって見つめる様は、波を制覇した彼女を狂喜して迎える様は、そのままその言葉通りのことを表していて、このシーンを撮るために全ての細かなストーリーはあったんだな、という気がする。サーフィンは、チームスポーツではないから、とにかく自分との闘い、最後まで自分が何をどうしていくのかという葛藤の世界だ。だからこそ、ある地点を超えた者どうしの共感があったり、認めあったり、敬意があったりするのだという気がする。そして、相手にするのが完全なる自然。そこには、どうしたってどうにもならないことへの理不尽さがあり、同時に、それを理解した上でそれと共存するためのある種の知恵が必要になってくるのだと思う。そういう事をすべてひっくるめた上でのサーフィン、それも、女の子のサーフィン。それを映すための、ただそれだけの映画だ。ただそれだけなのだけど、含有しているものはただそれだけじゃない。
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by yebypawkawoo | 2008-08-06 00:05 | ◆映画のこと