カテゴリ:◆考えたこと( 19 )

 

自分マーケティングだなんて、いつの話だよ。

今日は会社の飲み会。新しく入社した人の歓迎会でした。

その席で、なんとなく映画の話になる。ストレス発散法が話題となり、誰かが映画を借りて泣くことだ、といったのだ。だけど、映画の泣きポイントって人によってかなり違うよね。“私は『おくりびと』で大号泣だった”、という人がいれば、一方“一切泣けなかった”と言う人もいるし。(私は、まだ見てない)。悲しい話で泣くんだという人がいれば、親子ものに弱い人、幸せな未来像を見て泣く人(これは私には理解できない)、などなど、おお!なんと多種多様。

私にとっての映画の泣きポイントって何だろう?と考えた。考えて、結論。「わたしのことわかってくれない」だ、きっと。“誰も私のことなんてわかってくれないのよ”、とか、“真意は別にあるのに周囲に理解されない主人公というシチュエーション”とか。これ、かなり私の泣きポイントです。自分は承認欲求が強い、とは思っていたけれど、我ながら本当に強いのだなぁと思う。周りにこう言う人がいたら、あぁなんか成長過程でいろいろあったのかしらね、とか親子関係うまくいってなかったのかもね、とか思うだろうなー他人事として。いやいや自分のことですから、と自分につっこみ。

承認欲求の強さに加えて、おそらく、他人は私のことなんて分かってくれないのよ、なんて(そんなのごくごく当たり前の前提ではあるけれど、もっと自虐的かつ自意識過剰気味に)思っていて、理解してほしいと願っていて、でもどうせ理解なんてしてくれないよね(と、これまた自己中心的に・・・なんか気持ち悪い人だな、私)思ってるのだろうね。だからこそ、そういう主人公に共感して涙するのよね。

でも、ここで思い起こしてみよう。理解してほしい→理解してくれないの、この→部分。この移行の過程で、じゃあ私は他人に理解してもらおうとする行動をとっているのでしょうか?
答えは、否。とってないわけです。確信的にとっていない。とろうとしていない。そのくせ、理解してくれないよね、と自分をかわいそうぶっているこんな自分、いやー本当に気持ちわるーいー。


ここで思い出すのは、地方産業に従事するおじいちゃんおばあちゃんです。産業が発展しないと悩む田舎で往々にしてあるのが、マーケティング下手。いい物作ってれば必ず売れる、とかたくなに信じ、ひょっとしたら売り込みをすること自体が恥ずかしいとすら思っている場合もあり、、マーケティングという概念自体が存在しない、そんな田舎です。私が以前勤めていた会社は、そんな地方の活性化のために、いい物作ってるんだからもっとアピールしないと誰も知ってくれない=買ってくれないよ?と、マーケティングの概念を持ち込み、効果的に宣伝し、売れる仕組みを作る、というコンサルティング事業をやっていた。

こういう話はよくあることで、たとえば最近私が仕事でかかわっている、中小工務店にも多い。俺はいい家つくってんだよ、と職人かたぎのてやんでぇべらぼうめぇ気質の皆様。いい家作ればそれでいんだよ、と、宣伝のうまい大手ハウスメーカーに顧客を取られ、実はそんない技術力の高くない工務店との違いは、一般消費者には伝わらず・・・。この御時世、このままでは淘汰されちゃいますよ?ていう話なわけです。
せっかく、すごーくいい家を。そこらの大手デベにも負けないいい家をつくってるんだから、それをきちんと消費者に伝えようと努力しないとダメなんですよ、大将。知ってもらって、使ってもらって、初めていい家と認めてもらえるんだから。

あれあれ、これって人間も・・・?

自分マーケティングって言葉、何か一昔前に聞いたことある気がする、なんか、マーケティングブームってなかった?恋愛マーケティングとか、なんでもマーケってつけりゃあいいと思ってんでしょ?って題名の本が本屋にあふれた時あったよね。立ち読みしながら、なんだよこのタイトルって、思ったもんね、私。

でも、自分マーケティング、必要なのでは?と改めて思ってみる。マーケティングというか、つまり、自分のことを他人に伝えようとする意思と、技術(伝える人、伝え方、伝える場所の選定技術とかとか)が、やっぱりなんだかんだ重要なのかもね、と思ってみる。

どうせ言ったって、他人には伝わらないよと、いつも最初からあきらめてしまう私は、そんなこっ恥ずかしいことを飲みながら考えていたのでした。(言ったって他人に伝わらない、というよりは、言ったって、言葉を介してしまうことで他人には自分の本意が正確なニュアンスで伝わりえないから、それで誤解が生まれるくらいなら最初から何も伝えないほうがいい、というほうがより正確なのだけれど、いずれにしても、だ。)
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by yebypawkawoo | 2009-06-19 02:15 | ◆考えたこと  

繰り返す西瓜

ここ最近、夜ごはんがスイカだ。

終電帰りが続き、夜中ともなるとお腹もすいたを通り越して、
やや気持ち悪くもあり、でも何か食べたい。
そういうわけで、帰り道にあるスーパーで、
スイカの小分けパック(切り分けてあるやつ)を買って、
帰って食べるのが恒例となっている。

久しぶりに昼間にスーパーに寄った日曜日、
思い立って、1/4カットのスイカを買ってみた。
これなら、毎晩真夜中にスーパーによる必要がなくなる。
それで、翌月曜日の今日、
早速、買ってきたスイカを切り分けてかぶりついてみたのだ。

なんていうか、すごいノスタルジーに襲われて、まいった。
縁側で風を感じながら、むわっと湿った暑い空気の中で
スイカにかぶつく自分が浮かび上がってきたのだ。
それはもう鮮明に。蝉の声まで。

そういえば、あの肌にまつわりつくような夏の熱気を
感じなくなって何年たつのだろう。
昼間はクーラーの効いたオフィスにこもり、外に出るのは朝と夜中だけ。
こういう生活が日常と化している今、
あの夏の日は、それが日常となることは、
私にはもう来ないのかもしれないと、突如として思う。

過ぎた日は戻ってこないのだ。
それは時間という意味だけではなく、物理的なものとして、そうなのだ。
あの子供だった私の目線から見上げた緑の濃い木々はもうないのだと、
扇風機とうちわで過ごし、タオルケットで昼寝をして、畳の後がほおにつく自分はもういないのだと、
こんなデフォルトされたいわゆる典型的な日本の夏が
実際の私の経験として存在していたものが、
お話の中だけのものとなってしまうのだろうか。

あるいは、本当にそれらは私の経験だったのだろうか。
私のイメージが作りげた虚構ではないのか、そんな気さえしてくる。

これから先、積極的に形作っていかない限り、
繰り返すことはない光景のなんと多いことか。
子供時代に経験したあの日々は、この東京で当たり前に生活していたら、
ただの記憶と化してしまう日々なのだと気付く。

メビウスの輪がほどけた。
意識しない限り、ふたたび結びつくことはないのではないかと、
なぜかしら焦燥に駆られる。
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by yebypawkawoo | 2009-06-08 20:48 | ◆考えたこと  

優れた本の条件

ここ数か月、読んだ本に線を引くようにしている。線を引く箇所は、単純にこの表現いいな、という場合もあるが、大体が自分の琴線にふれた言葉・文章、言い回しだ。

線を引くことにした理由は様々あるのだけれど、ここ数か月の読書を振り返ってみて、自分がどういう内容に気持ちを動かされるのか、どんな表現が好きなのか、といったことが分かってきた。というのは、読書全体を通した自分のカンどころというか泣き所というか・・・がある程度俯瞰して見えてきたから。これは当初の想定外ではあったが、ひとつの大きな収穫だ。今までの「なんとなく」読書ではわからなかったことだ。一方のデメリットは、新古書店に読了本を売れなくなってしまったことか。本はどんどん増えていくがゆえ、私の生活空間は圧迫されゆく一方通行の道をたどるのみ・・・。(本を売るのは平気なくせに、捨てるのには抵抗を覚える)

それで、振り返ってみて改めて気づいたこと。は、良書(と私が考える書)、あるいは良い表現というのは、一般論にきちんと落ちているものだ、ということ。対して、小説の中のあらすじ・ストーリーは、自分の良書判断にはほとんど関係ないことがわかってきた。ストーリーがどんなものでも、そこから導き出された個人的普遍論、つまり全ての人に当てはまるわけではないかもしれないが、多くの人の行動や感情をパターン化して(哲学化してとも言えるだろうか)表現した言葉や理屈。あるいは、自分さまざまな個人的行動にあらゆる場面で通じる考え方。そういう、個人的普遍論、とでもいうべきエッセンスがあるかないか、が私の中での良書か否かの判断基準になっていたのだ。

この個人的普遍論とは、つまり自分にあてはめて考えることができる言葉だ。これらを読んだとき、小説内での主人公の、私の現実ではとても起こりそうもない、非科学的な、あるいは突拍子もない、環境依存度の高い・・・、行動の数々が、瞬時に自分事化される。この瞬間を求めて私は読書をしているだという気がする。


あまりに現実的で詰まらない話ではあるのだけれど、これは恐らく実生活でも言えることで、たとえば仕事の場において、自分の経験知をあらゆる案件に応用できるように、自分の中で普遍化できる人、というのは仕事ができる人と言えると思うのだ。仕事のような、実務的な話だけではなくて、個人的体験を基に帰納法的に昇華させた人生のエッセンスのようなものを持っているかいないかは、彼・彼女の生き方の幅や深さを規定しうると思う。少なくとも私が話していて面白いのは、断然、自分の話ができる人だ。個別具体論ではなく、個人的普遍論としての。

そういうわけで、私はもっと考えないといけないと思う。他者の論理ではなく、自分の論理が必要なのだ。机上の空論ではなく、自分の固有の経験から生じ"させ"た、自分専用の論理が必要なのだ。頭でっかちな独りよがりな論理では意味がなく、そうではなくて、普遍的である必要がある。でも、個人体験に基づいていることが重要なのだ。私のこれまでの数十年間の時間の積み重ねの中から、もっと導き出せることは多いはずなのだ。だから、私はもっともっと考えなければならないと思う。

自分の体験の普遍化と、それを通した固有体験の共有・公開、それら全てによる昇華を経て初めて、自分と、もしかしたら他人の救いが得られるのではないかという気がする。優れた本とは、つまりこういうものなのではないかと思う。
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by yebypawkawoo | 2009-05-16 01:59 | ◆考えたこと  

たとえば、コンパで出会った人の友達が、自分の友人でもあった時の親近感。

新宿ジュンク堂の保坂和志フェアにいかねば。

たまに本屋さんでやっている、作家の本棚再現企画。あれは面白いと思う。

わたしには悪癖があって、どんな本を読んでいるかで、ある程度その人の人となりを判断してしまう。それだけじゃあ何もわかりはしない、とわかっていながらほぼ無意識にやってしまう。(でもこの感覚、ある程度の読書家であればたいていわかってくれるんじゃないかしら)

そんな私は、恥ずかしいので自分の本棚は人に見られたくない。「へーこういうの読むんだ。ふ~ん。何かわかる気がする」なんて言われた日にはもう、恥ずかしさのあまり一発殴りたくなる。(自分はよく言ってる癖にね)でも他人の本棚覗く時は別。嬉々として観察の悪趣味万歳。

で、作家フェア。
ただの知人の本棚みるだけでも内心わくわくなのに、いわんや、である。自分の影響を受けている作家の読んでいる本達。前提が好意的だから、え(濁点)?な本があってもたぶんがっかりしない。本人が“作者”であることが、わくわくに拍車をかける。なぜなら、そこには我が家の本棚の先にひろがる世界がある。気付いていなかったつながりが見えるに違いなく、二重構造の面白さがある。

私は知らない町を迷子になりながら散歩するのが好きで、それは、それまでただの風景でしかなかったものが立体として浮かびあがってくる変化が面白いからだ。外部は変化しておらず、変わったのは私の意識、内面だけ。そういう、意識的世界でのつらなりや変化で私の世界は成り立っていて、それが他人の意識的世界とリンクしていく感覚。

共感、というのは恋愛における重要なファクターのひとつだと思うのだけど(だから恋愛初期はいかに共感を演出するかが鍵だよね)それと同じ楽しみが読書にはある。主観の客観化による共有。連なっていけば、全然違う価値観をも共有しているかもしれない。

そういうわけで、新宿へ行こう。10月31日まで。
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by yebypawkawoo | 2008-10-06 17:58 | ◆考えたこと  

感情で始まり、理由は後づけ。

なんだかんだ、理屈を並べてみたところで、
結局、物事を決断する理由は、自分の感情=嫌か嫌じゃないか。でしかなかった事に気づいた。
最もらしい理屈は、理不尽でただの感情論に過ぎない本当の理由を
いかにそれっぽく見せ、相手(と自分も)を納得させるか、のための技術にすぎない。
嫌なものは嫌だし、好きなものは好きだし、そこに理由なんてない。
あるのは、それを説明するための技術的理論。技術である以上、磨けば上達するのかしらん。
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by yebypawkawoo | 2008-10-05 23:29 | ◆考えたこと  

側にいたい理由

わたしは嘘つきだ。
言わない、という嘘をつく。
言わないことで、相手の想像のままにしておく。
無意識の、受動的な、想像。
そこで生じる誤解や、想像と事実との差違は、
意識の前提レベルのほんの些細な事であることが多い。けれど、
前提であるだけにそこを起点とした彼らの想像は、
事実とは若干“次元”を異とする。

それでも、あえて私は、それを正すことはしない。
面倒くさいし、それに、事実を知られてしまう事への絶対的な、恐怖。

たぶん、それを否定される事への恐怖。
否定されるかもしれない可能性への恐怖。
表面的な問題ではない。絶対的なものだ。
私は自分に自信がないのだ。そしてそれを割り切りきれていない。ちっとも。


だから、くったくもなくあっけらかんと
私が言い澱む数々を口に出す彼を、彼女をみていると
心が楽になる。ふっと一時軽くなる。
彼も彼女も、差違があることを知っているから、
それをそれとして認めてくれるから、
少なくとも私はそう思っているから、だから。

だからきっと私は彼らが好きで、側にいたいと思うのかもしれない。
自分が許されるような気がするから。
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by yebypawkawoo | 2008-05-04 18:18 | ◆考えたこと  

騙すことへの可否を問う

わたしはたぶん、いつもどこか、
自分で自分を騙しているようなところがあって。
常に第三者的視線を気にしている、部分があるのかもしれない。

それは多分、キリスト教とか宗教や神という存在が
身近なものとしてある人々には当たり前の状況なのかもしれない。けれど、
あくまで想像するに、わたしの場合はそれとはちょっと違う気がする。


例えば、この日記にしてもそう。
こうありたいとか、こうであったらいいなとか、
あるいは、こうであるべきなんじゃないか、とか。
そういうところ、“場”へあえてもって行ってるんじゃないか、
という気がする。


あるいは。人生は単に思い込みに過ぎないのかもしれない。
人生、というか、そこで繰り広げられる諸々の思想、
それに根ざした行動、関係、そういうもの。

うまく騙されてればいいのだけど、
たまに違和感を感じ全てをひっくり返したくなるのだから、
それが問題になる。
ちゃぶ台をひっくり返したって畳が汚れるだけなのに。

あるいは。
今この時感じ考えている事が、
一寸先には虚構であったことに気づいてしまうんじゃないかという恐怖。

割りきりきれない、どうしても。
多分、適当にこなしてきてしまった事へのツケ。
本質をみようとしなかったことへのツケなのだ。

問題なのは、環境ではなく、自分自身の有り様。
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by yebypawkawoo | 2008-03-25 18:38 | ◆考えたこと  

正確な言葉を使う

正確な言葉を使いたいと思う。
それは、きちんと生きるということと同義だ、私の中で。

最近、正確な描写をする人に出会った。
彼の言葉には、嘘がない。確信犯的につく嘘だとかは別だけれど、
なんていうか、適当ではない。適当さに逃げていない、とでもいえるだろうか。

正確な描写をしようとすると、言葉に遊びが無くなる。
つまり、そこには他者からの想像の(期待といったほうが正確か?)余地がない。
人は、他人の言葉の遊びの部分を、勝手に自己解釈して、自分の都合のよいように
(それは、自分にとって良い意味でも悪い意味でも)期待をする。

彼はそういう甘えを許してくれない。
それは、“きちんと”生きる努力をしているということ。
適当さに甘んじて生きてきていた、このところの私は、はっとする。
はっとして、その正直さや誠実さや、危うさに、溺れそうになる。
蓋をしたくなる。それは、私の弱さ。

言葉を正確に話したいと思う。適当さに甘んじることなく。その余白に甘えることなく。
それは、きちんと生きることと同義なのだ、私の中で。
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by yebypawkawoo | 2008-03-17 23:34 | ◆考えたこと  

選択とは、切り捨てること?

さっき、トイレにこもって、ハチミツとクローバーを再読してしまった。
わたしん家には、トイレに漫画があるのです。ザ・プライベート、くつろぎ空間。
そのうち、アロマとか音楽とかも持ち込もうかしらん。

で、まぁザ・青春なこの漫画は、やっぱり面白い。
それは、登場人物たちがきちんと物事を、人生を考えてるからだと思う。迷いながら。
人生とは、選択の連続。選択するときに、人は迷う。あるいは、選択しないと決める時にも。

その中でひかかった言葉。はぐちゃんが、森田君ではなくて先生を選択したことに、
山田さんが疑問を呈したときに、真山が言った言葉。
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 生きる意味が何にかかってるか―だと思う
 それが「恋愛」の人もいれば、
 好むと好まざるとにかかわらず
 何か「やりとげなければならないモノ」を持ってうまれてしまった人間もいる
 どっちが正しいとかは無くて
 みんなその瞬間はもう
 本能にジャッジをゆだねるしかないんだろうな

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トイレに入ってマンガを読み始める前に読んでいた本も、人生の選択の話。
舞城王太郎の「みんな元気。」

自分の人生の可能性、3人の男の人と家庭を築いていた可能性、を
それぞれ見せられた主人公、枇杷の物語終盤での想いが圧巻。
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 まだいろいろもっとたくさん選択肢はあるに違いない。
 いや選択肢はもっと作ることができるんだ。
 まだ選択肢になっていないところからもっと選べるんだ。
 そうして増やした選択肢の中から私はもっとよく考えて選べるはずだ。
 もっとよく考えて選んでいかなくてはならないのだ。
 植木バサミを振るって人の首をちょきんちょきんと切るような
 重い決断をしていかなくてはならないのだ。
 でも人が人生を生きるとはそもそもそういうことで、
 みんなそうやって生きているんだ。
 平気で、元気で、気づかずに。

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そう、平気で元気で気付かずに、重い選択をしながら人生を生きている私たち。
でも、どっちの選択が正しいとかはなくて、何を選ぶかだけなんだ。
大切なのは、選択をしたのだという意識。それを選んだ自分への責任の意識。
それでも、選択の瞬間は本能が大きく作用しているんだと思う。

わたしは、自分の人生の選択に後悔をしていない。
学生の頃、いろいろめちゃくちゃなこともして、友人にあきれられたりもしたけれど、
それでも、私は反省はしても後悔はいっこもない、と言い切ったら、
友達にすごいね、いいことだね、と褒められた(たぶん、褒めてくれたのだと思う)

それでも、将来の人生の選択に対してはものすごく不安を抱く。
そういえば、数年前までは、選択の基準は「後悔しないか否か」だった。
その選択をえらぶことで、私は後悔しない?選ばないことで、後悔しない?
そう自分に問いかけて、結論を出してきてた。


ずっと、人生何でもできると思って生きてきていて、
死ぬことを考えたら何でもできる、と思って生きてきていて
(それは、死ぬ気になれば何でもできる、という意ではなくて
何が起こっても最悪、死んでしまえばすべてはリセットされるんだから大丈夫、ということ)
えいやあと生きてきていた。

えいやあ。

えいやあと、割と捨て身に選択をしてきていた。
そして四半世紀がたって、自分の人生の意味を考えはじめてしまった(いまさら)。
生きる意味がなんにかかっているか。わたしの生きる意味は何どこにあるのか。
その軸を基準とした選択をしていかねばならぬのか。
いや、これまでもそうしてきていた、ある部分では本能に任せて。

人生の選択肢はものすごく多い。
今この瞬間に何をするか、それもひとつひとつの選択。
明確なビジョンのある人の選択には(結果として)ゆらぎがなく、
それがすごいというような風潮の世の中だけれど。


アップル社CEOのスティーブ・ジョブスのスピーチを思い出す。
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You can't connect the dots looking forward; you can only connect
them looking backwards. So you have to trust that the dots will
somehow connect in your future. You have to trust in something
— your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never
let me down, and it has made all the difference in my life.

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この言葉は、最近の私をいつも勇気づけてくれる。
ひとつひとつの選択はdotにすぎなく、何のかかわりもないように見えていたとしても、
あとからつながっていく。
必ずしも先明確なビジョンがあって線を引いていく必要はない、ということか。
すべての経験は何かに役立つといえば当たり前にも聞こえるが、
その選択のひとつひとつを、選んだんだという自覚を持って過ごした結果ということなのだろう、たぶん。

いずれにせよ、そういういろいろな考えかたすべてを内包した上で考えて、選択していこう。
その時々でいいと思えるものでいいじゃないか。
その時々で、これだと感じるものでいいじゃないか。
そういうもので私は生きてきている。

一つの基準として。私は、自分に対してだけは、正直でありたいとおもっている。
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by yebypawkawoo | 2008-03-14 23:06 | ◆考えたこと  

理由づけ

うまく、理由づけできる人になりたい。
あたしは、そういうのがすごく下手だ。
ものすごく。

自分のとった行動とか、抱いた感情とか、
そういった自らの“動き”に対しての、理由。

それは、自分の境遇とか深層心理とか置かれている立場なんかを
客観的に見る視点がないとつけられないと思う。

私の尊敬する知人の、発した言葉を聞いて
強くそう思った。彼女の理由は的を得ている。嘘くささがなく、納得してしまう。


私も、これまでだって、理由づけをして来なかったわけじゃない。
自分の人生の選択に対する理由。大小含めての。

けどね、それは何ていうか、嘘くさかった。うさんくさかった。
綺麗にまとまりすぎてたし、ほんとう、ではなかった。
作り物ででっちあげ。自己満足にすぎない。

感情で行動して、その感情っていうのがひどく稚拙で子供にすぎるから、
恥ずかしさから深堀せずに、綺麗に見えるように取り繕う。
その、繰り返し。

どっかでボロがでるよ?そんな生き方してると。
嘘くさい、 はりぼての人生になっちゃうよ?

それでいいのか?

駄目です。わたしはほんとうで在りたい。

そうであるならば、やはり。
感情に任せて行動する事を否とはしないけれど、
その根底にある思考の流れをきちんと見つめて解きほぐそう。
その過程でおかしな事があれば、修正して調整していこう。
そうしたら、本物の理由が見えてくるんじゃないかな、と。
そう思った。

理由づけをきちんとしよう。
キングス&クイーンの主人公ノラのような生き方もひとつだけど、
わたしは私の、ほんとう、を生きたいから。
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by yebypawkawoo | 2008-03-13 17:40 | ◆考えたこと