カテゴリ:◆映画のこと( 60 )

 

『つぐない』・・・原作のある映画って、本で読んじゃうんです、大抵。

つぐない『つぐない』 ジョー・ライト(2007)
2008年9月21日鑑賞


イアン・マキューアンの原作、『贖罪』を未読なまま鑑賞。
あらま、これって私にしては珍しい。
というのも、昨日ふと気付いたのだが、
私は原作がある作品は、本で読むほうが好きだったりするのだ。
映画を、音・映像のある3Dという意味での映画として楽しむというよりは、
お話・物語として楽しんでいる部分が多いご様子なのです。
本は、勝手に想像してしまえるから、
自分の好きなように世界を作れちゃう部分が大きいもんね。
妄想っ娘としては、こっち(活字オンリー)のほうが、楽しいのかも。

それはともかく、この『つぐない』。
原作未読で挑んでなお、
映像からやっぱり英文学、ブッカ―賞、という雰囲気が漂ってくるのはなぜだろう。
監督が意識してとったのか、イアン・マキューアンの持つ力なのか。
すんばらしい再現力(あるいは、創造力)。
私の好きな種類の世界感、映像美、ではないけれど、これはこれで美しい。
キーラ・ナイトレイも美しい。ほんと。

妹の些細な嘘と戦争によって引き裂かれる、
姉(キーラ・ナイトレイ)と、彼女たち一家の使用人の息子との恋愛物語。
でもただの恋愛物語ではなかったことがわかるラスト、
を見て初めて、おぉ。いいお話じゃあないか、と思いました。
映像よりも、そのお話力に、評価。
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by yebypawkawoo | 2008-09-30 00:33 | ◆映画のこと  

『マルホランド・ドライブ』・・・混乱と混沌の世の中。に、解説求む。

マルホランド・ドライブ『マルホランド・ドライブ』 デヴィッド・リンチ(2001)
2008年9月20日鑑賞


なぜだかこの作品を見る機会を逃し続け、やっとこ鑑賞。けれど、先に『インランド・エンパイア』を見てしまっていたが故に、衝撃度合いが緩和されてしまった。インランド・・・のほうが、わけのわからなさとか混乱度が強く、でもエンドロールがなんだか救いでとても好きだった。それとの比較なので、ちょっと自分の中での評価が低めになったのが残念。

だけどそれでも凄い。理解しきれない前半部から全てがつながる後半部、そういうことかーと自己流解釈をして、それで満足できず他人の解説を求めてしまう。リンチの映画は、私にとっては映画というより美術・芸術鑑賞に近い。それも痛々しく生々しい芸術作品。芸術方面には疎いので、美術館にいくと作者のバックグラウンドとか作品解説をじっくり読んでしまう。初見で感じることもあるが、じっくり読んで初めてわかることのほうが多い。たぶん、その時々の自分の持つ要素に近しいものを無意識に選び取って勝手に共鳴している部分は多大にあるだろう。リンチ映画はそれに近いのかな、と思う。その時々で感じ入るものが、たぶん異なる。

現実は悪夢だ、夢の中をさまよい、たどりついた先も悪夢だ。この混沌とした現実は、けれど悪夢だと思い込んでいるだけで、この混乱こそが真実でもある。まずは受け入れ、その上で何を選ぶか。後悔が悪夢を生むなら、後悔しないようあらゆる可能性を見つめるべきだ。だけど。激情に流されたナオミ・ワッツの行動を、ちっとも否定できない私もいる。それだってまた一つの、もしかしたら幸せな人生なんじゃないかな、という気もした。
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by yebypawkawoo | 2008-09-24 22:28 | ◆映画のこと  

『フェリスはある朝突然に』・・・アルフィーとかフルハウスとか、もう一回見たい!

フェリスはある朝突然に
『フェリスはある朝突然に』 ジョン・ヒューズ(1986)
2008年9月20日鑑賞


ちょっと前のアメリカドラマ、のノリで面白かった。主人公のフェリスが、作中カメラ目線で乗客に向けてのコメントを発したりする。そういうノリが、一昔前感があるのだけど、逆にそのわざとらしさが高感度。アルフィーとか、フルハウスとか、そういえばよく見ていたなぁ。そういう面白さ。

「人生は短い、楽しまなきゃ嘘だ」。
高校生の主人公フェリスが、天気の良い朝、学校なんて行ってられないとばかりに、両親をだまし校長をだまし、彼女と親友を連れだって町へ繰り出す一日を描いた作品だけど、フェリスの躊躇のなさが気持ちよく爽快。意外と感動シーンもあったりして。先にあげたドラマなら、ここでバックから「Ohoo~」なんつう観客のため息が聞こえてくるに違いない。あのわざとらしさが好きだったな。
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by yebypawkawoo | 2008-09-21 12:08 | ◆映画のこと  

『フレンチなしあわせのみつけ方』・・・一人の人しか好きであっちゃいけないのは、何でなんでしょうね。

フレンチなしあわせのみつけ方『フレンチなしあわせのみつけ方』 イヴァン・アタル(2004)
2008年9月12日鑑賞


好きな人は一人じゃないといけないの?どうして一人としか結婚しちゃいけないの?

劇中、確か、こんなようなセリフを小さな男の子が発するのだけど、まぁ端的にいってしまえばそういう映画。夫婦間の愛と、夫婦外の愛(ありていに言って浮気っすね)と。

好きなシーンが二つあった。

ひとつは、夫の浮気を察知し自分のこれからを悩むシャルロット・ゲンズブールが、ジョニー・デップとHMVで出会うシーン。たまたま二人とも音楽を視聴してるんだけど、それが画面いっぱいに流れ出す、その音楽ってのが、radioheadの“CREEP”。大音量のCREEPを背景に、二人は見つめあいます。もう、このシーンが問答無用で好き。

音楽って、思い出と一緒になっていることが多い。誰かにとってのある種の音楽は、聞くだけで、かつての記憶とその時の感情がフラッシュバックしたりする。CREEPは私にとっては、そのある種、なので、それと相まって、シャルロット・ゲンズブールのドキドキ感がもうひしひしと。山田詠美さんもいってました、素敵な男の子がいたら、じっと観察すること、目が合えばにこっとほほ笑むこと。これが出会いには不可欠だと。まさにそんなシーン。こういう時のときめきってのは、いくつになっても忘れたくないよね。

もう一個は、冒頭で紹介した、男の子のセリフのシーン。まだ幼い彼の素直な感想は、なんと根源的問いであることでしょう。まだ常識とか恋愛云々とかそういうのを体感していない彼だからこそのこの言葉、は、この映画のテーマにそのまま直結しちゃってます。問いはシンプルなんだよね。それを難しく考える(立場とカ、しがらみとか、色んな人生とかとかね)から、難しくなるわけです。でも、人生ってば複雑怪奇で難しいんだもんね。もっと単純に割り切れたらいいのに。なんて思う夜もあったりなかったり。
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by yebypawkawoo | 2008-09-15 23:52 | ◆映画のこと  

『フルメタル・ジャケット』・・・狂気の描き方が、秀逸すぎる

フルメタル・ジャケット『フルメタル・ジャケット』 スタンリー・キューブリック(1987)
2008年9月13日鑑賞


TSUTAYAって、1か月に2回くらいは、半額セールをやってくれるもんだから、ついつい映画を借りてしまう。安さにかまけて、いっぱい借りてしまう。見きれなくなって、延滞料金払うはめになる。結局高くついてるやん、っていう、これを何回繰り返せば、私は気が済むんでしょうね。

でも、この映画は延滞料金払う価値、全然あるね。キューブリックってば、やっぱり凄いんだなぁ。なんて、プロの歌手に歌うまいんですね、っていっちゃうようなもんだけど。

何が凄いって、前半部分があまりに秀逸。海兵隊の訓練の様を描いた前半部の中で出てくる教官のえげつない罵り言葉と、それからランニング時の歌の陽気さとお下品な歌詞のギャップ。狂気が、訓練生たちを(とくに“ほほえみデブ”を)むしばんでいく様は、圧巻。だってさ、最初と最後で彼らの表情がもう明らかに違う、これって演技だけじゃない気がする。役を超えた狂気に演者が取り込まれてる。こんな風に役者を取りこんじゃう凄さが、キューブリックなんだと思う。

彼らがベトナム戦争に参戦してからの後半部は、最後のミッキーマウスマーチでもって完成されてる。ミッキーマウスマーチだよ?なんつう皮肉ですか。そのセンスが凄い。

戦争もの映画って、その戦争の背景それ自体や、複雑な世界情勢や、それに翻弄される市井の人々や、そういうものを描いて、あなたはどう考える?これを知って何をするの?ていうような暗に何かを訴えかけようとしてくるものが多いけれど、この映画に限ってはもっと、普遍的で本質的な人間性そのもの、もっと根柢の部分を描いてるように思う。だから、この映画が扱っているテーマは、アメリカ海軍とか戦時下のベトナムだけじゃなくて、今の日本にだって当てはまるんじゃないかと思うのでした。
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by yebypawkawoo | 2008-09-14 22:48 | ◆映画のこと  

『ドッグヴィル』・・・何が本当の正義なのか。

ドッグヴィル スタンダード・エディション『ドッグヴィル』 ラース・フォン・トリアー(2003)
2008年8月24日鑑賞


なんなんだ、この映画は。すごい。凄いの一言に尽きる。177分と、約3時間弱もの長編にも関わらず、真夜中に見たにも関わらず、まったくもって眠くならなかった。むしろ、時間がたつにつれ、意識は物語の中へと引きづり込まれ飲み込まれていく。いつもなら残り時間が気になり、映画館ならこっそり携帯を、DVDなら残りの軸の長さを、ついつい確認してしまう私なのに、一度も時計を見ることがなかった。

まず興味深いのが、場面の設定。舞台はドッグヴィルという、アメリカはロッキー山脈のふもとの小さな村、閉鎖空間。これを表現するのに用いられたのは、地面とそこに描かれたチョークの境界線。これは見なきゃわかんないね。こんな感じ。
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全部で9のchapterに分かれていて、その冒頭部では小説の章題のように、各Chapterを説明する文章が挿入されるのだけど、それによって次になにが起こるかが分かってしまうにもかかわらず全然飽きることもないのは、この映画で描かれているのが、きっと誰もが持っている人間の嫌な、でも本音レベルで全然あり得る感情とそこから生まれる行動だから。自分の嫌な面を突き付けられた時、そこから逃げるのか受け止めるのか。なにが起こるのか私は目が離せなかった。分かっていても、本当にそうなってしまうのかを確かめたかった。きわどく不快な行動にだって、自分ならそうしないなんて、全然思えなかった。それは私が、映画の鑑賞者という神の視点を離れて物語の中におりたった瞬間から。

この物語で演じられるのは閉鎖社会の恐怖、のように私には思えた。閉鎖社会といったのは、その名のとおり狭く閉ざされた空間、という意ではなくて(もちろん、それも含まれるのだけど、)ひとつの価値観やあるいは文化を形成し共有する集合体、ということ。小さくは家族だってそうだし、大きくは地球ということもできる。地球に住んでいるということによって生まれる常識を我々はある程度共有していて、それは外部から見たら非常識でありうる。一人ひとりの意識や感情は、共通項を見つけて大きくなっていき、結果として意思をもった生命体のように蠢いていくことは往々にしてある。個を見れば些細なことがマスとなると何倍にも強大化してしまう。その恐ろしさが如実に表れている。ひとたび部外者という認識を持った時、人はきっと、何だってできるんだ。どんな、残酷なことも、手ひどい仕打ちも。

何が正義で、何が悪なのかということを考えさせられる。ニコールキッドマンの最後の選択は、善悪でも正誤でも語れなくて、でも彼女がその決断の前に考えたことには共鳴させられた。結局行きつくのは、自分にとっての正義が何か、でしかないのかなと思って、少し虚しさを覚える。いつだって、大多数が正しく、権力者が強く、それは正義の力が強大化するからなのだ。そんなの間違っている、という意見が強くなるならば、そう思う人の母数が増えたという話。それならば私は、私にとっての正義をきちんと見つめ、考え、それに従って行動するしかない。
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by yebypawkawoo | 2008-09-13 00:43 | ◆映画のこと  

『オール・アバウト・マイ・マザー』・・・重要なのは人物の特異性ではなく、経験し感じる出来事の普遍性。

オール・アバウト・マイ・マザー『オール・アバウト・マイ・マザー』 ペドロ・アルモドヴァル(1998)
2008年8月22日鑑賞


久しぶりに見ました。2回目の鑑賞。やはり、アルモドヴァルの作品は好きだなぁとしみじみ。(そして、若し日のぺネロぺ・クルスが、そりゃあかわいい)

この作品には、女性の強さが見事に表現されている。あえて触れないという強さ、一気に突き進んでいく強さ。覚悟を決め、腹をくくったとき、どこか棄てばちともとれるような、そういう強さが、女性にはあると思う。果たして男性は、どうなのだろうか?実際のところはわからない。けれど、この作品に描かれる男性は、脇役でしかなく、だからというわけではないけれど、突き抜けたときに発揮される強さ(これは全くもって弱さの裏返しでもあるのだ)というのは、女性だからこそのものなのではないかと感じる。

アルモドヴァルの描く人物は、いわゆる“普通”ではない。性癖や取り囲まれた環境や、設定がノーマルではないことが多い。本作も、出てくる女性は特殊な事情のてんこもり。夫がゲイになってしまいそれを息子に打ち明けられないままその子と死別してしまった女性、彼女の元夫の子供を身ごもりついでにHIVまでもらいうけたシスター、同性愛の女優と、情緒不安定でドラッグ依存の彼女の恋人、底抜けに明るい両性具有のおかまちゃんエトセエトセ。でも、彼女らが経験する出来事や悩みの本質は、ものすごく普遍的なのだ。そして、そこに横たわる愛。泣きたくなるような、この愛こそが普遍だ。世の中には、設定が私たちに近い(つまり大多数が共感できるような)人々に起こる、一風変わった出来事や経験を描いた作品も多いけれど、私にはそんな物語よりも、アルモドヴァルの描く世界のほうが何倍も何十倍も共感できるのだ。
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by yebypawkawoo | 2008-09-08 01:34 | ◆映画のこと  

『愛されるために、ここにいる』・・・言葉の危うさを思う。

愛されるために、ここにいる『愛されるために、ここにいる』 ステファン・ブリゼ(2005)
2008年8月21日鑑賞


うーん、面白い。パトリック・シェネ演じる主人公は50歳過ぎたおじさん。別に格好良くもないし、地道に地味に生きてきた感じの、つまり、いわゆる普通の。おじさん。本作は、彼の一瞬の恋愛と、同時期に起こった家族間のやり取りが描かれる。そんな、自分とは全くかけ離れた素性ではあるけれど、子供の頃思っていた大人って、自分がその歳になって気づく、全然大人じゃないじゃん子供じゃん、っていうのの未来形を見せられたかのような感覚に襲われた。

父親との関係、息子との関係、女性との関係、そのどれもが自分自身にも当てはまる、と思う。身内だからこそ言えない(言わない)言葉、自己保身かプライドか、傷つきたくがないゆえに言ってしまう言葉。あえて自分の中でさえ言語化しようとしない、感覚を感覚としてそのまま触れないでいたい箇所。そういうものがものすごくうまく描かれていたのではないだろうか。

言葉というのはもの凄く危うい。発した言葉は、言葉として独り歩きしてしまう。本心はそうじゃなかったの、行間を、言外を読んでほしかったの、というのは単なる甘えに過ぎない。だけど、その部分に甘えている人のなんと多いことか。本当に正確に伝えたいならば、誠心誠意言葉を尽くさなければならない。一方で、どんなに言葉をつくしたからといって100%は伝わらない。自分の中で言語化した瞬間から、齟齬は始まっているのだから仕方ない。どこに重きを置くのか。どこを自分の中で大切な部分と定義づけるのか。それによって、言葉として発する範囲と深さは変わってくる。

本作の登場人物たちは、言葉を正確に発していない。相手に届けようとしていない。曖昧な部分に生じる偶然性に成り行きをゆだねている。あるいは、そう意識さえしていないかもしれない。そういうところが、人間らしい部分ともいえる。そういうところが面白くありさえもする。だけど、それだけで日々を過ごしていたら、それはただの怠けであり甘えであるとも思う。偶発性に身をゆだねるのは、その覚悟をもってこそでありたいな、私は。

そうはいっても、感情が先を行き、ひねくれ心が邪魔をしてどうしてもそうあれない時だってある。そういうところが可愛くもあるよね(これってでもあくまで、神の視点で見たときの話だけど)。そういう意味では、この映画、原題の「愛されるためにここにいるわけではない」のほうが、ひねくれ感が出ていていいと思うんだけど。
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by yebypawkawoo | 2008-08-21 23:29 | ◆映画のこと  

詰まらない日記

なんだか最近、本も映画もぴんとこない。
面白いと感じられない、なぜだ。
受容体が変容しているのかしらん、あるいはアンテナが折れているのかも。

最近見た映画
『ラストサムライ』 エドワード・ズウィック(2003)
→ いまいち。リアリティを追求してしまうと断然アウト。かといってフィクションには昇華しきれていない感。

『ふたりの5つの分かれ路』 フランソワ・オゾン(2004)

→ うーん。さかのぼっていく手法ということでいえば、エターナルサンシャインのが面白い。出会いがそれだったということが何だか私の中でひかかった、軽すぎる。悲しい気持ちになるだけだった。

『コーヒー&シガレッツ』 ジム・ジャームッシュ(2003)

→ 何これ、おしゃれ映画?複数の関係のない話を集めました、みたいなのはあまり好きではないようだ。

『フリー・ゾーン~明日が見える場所~』 アモス・ギタイ(2005)

→ わたしは中東の現状を知らない。でもこの映画をみたって、知りたいとは思えなかった。知らないな、と思っただけ。そういうのってこの種の映画としては全然だめだと思う。

『ぐるりのこと』 橋口亮輔(2008)
→ 期待しすぎたか?描きたいことはわかる、何があってもそれでゆらいでも受け入れ乗り越えて(飲み込んで)いく夫婦というのも、一つのきれいな形だと思う。だけど、それだけ。皆ある程度飲み下し受け入れやっていってるんだから。乗り越えてくるものはなかった、人が言うほどには。まったく関係のない、梨木香歩『ぐるりのこと』は断然良い。こちらのほうが数倍刺さった。

『それでもボクはやってない』 周防正行(2007)

→ 面白かったけど、ドラマ。2時間ドラマ。


選択が悪いのか、はたまた私の精神状態が悪いのか。後者の要因が大きかったのだとしても、それを打破して余りあるほどのものだってあるはずだ。ものすごく面白い、これぞ映画だという映画に出合いたい(あんまりないからこそ、見つけたとき嬉しいのだけどもね)。
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by yebypawkawoo | 2008-08-19 00:01 | ◆映画のこと  

『ブルークラッシュ』・・・ただサーフィンを描くためだけの映画、けれどそこには。

ブルークラッシュ『ブルークラッシュ』 ジョン・ストックウェル(2002)
2008年8月5日鑑賞


最高に格好いい!!サーフィンってやっぱり格好いい!
これは、何か難しいこととか、複雑なこととかを全く考えずに見るべき映画だ。
パイプラインのあの波を、目を耳を、彼女達を通してただただ体感する映画だ。

経験者ならきっと、波にうまく乗れた時のあの征服感とか、波に巻き込まれたときの圧迫感とか恐怖、そして水の圧倒的な存在感、そういうものがザワザワとぞくぞくと蘇ってくる。ストーリーが難しすぎず、でも作られ過ぎていなくて現実的なのがいい。これは明らかに、サーフィンをとった映画だし、そのためだけの映画だと思う。

メイキングで、“こんなに応援しあうスポーツは他にない”、という言葉が監督の口から出てくるのだけど、最後のシーン、主人公アン・リーを全員が一体となって見つめる様は、波を制覇した彼女を狂喜して迎える様は、そのままその言葉通りのことを表していて、このシーンを撮るために全ての細かなストーリーはあったんだな、という気がする。サーフィンは、チームスポーツではないから、とにかく自分との闘い、最後まで自分が何をどうしていくのかという葛藤の世界だ。だからこそ、ある地点を超えた者どうしの共感があったり、認めあったり、敬意があったりするのだという気がする。そして、相手にするのが完全なる自然。そこには、どうしたってどうにもならないことへの理不尽さがあり、同時に、それを理解した上でそれと共存するためのある種の知恵が必要になってくるのだと思う。そういう事をすべてひっくるめた上でのサーフィン、それも、女の子のサーフィン。それを映すための、ただそれだけの映画だ。ただそれだけなのだけど、含有しているものはただそれだけじゃない。
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by yebypawkawoo | 2008-08-06 00:05 | ◆映画のこと