カテゴリ:◆本のこと( 38 )

 

『異国の客』・・・あーん、フランス住みたい!

異国の客 (集英社文庫)『異国の客』 池澤夏樹(集英社文庫)
2009年8月31日読了


忙しさにかまけて、ちっとも読書録を更新していなかった昨今です。なんせ、本当に忙しい。まーいーにーち、まーいーにーち、僕らは鉄板の上、もとい、四角い箱の中。毎朝10時から時には0時まで、四角い箱の中。どうよ?こんなの、人間のすることじゃない。もっと私は文化的で優雅な生活が送りたい。9時5時ライフはどこにあるの?

そんな私があこがれるのは、村上春樹のような小説家。いやいや、決して彼のような小説が書きたいとか、彼のように有名になりたいとか、そんなことではなくて、そのライフスタイルにあこがれるのございます。小説書くなんて、どこでもできるちゃできる。ギリシャ、アメリカ、日本の各地、転々としながら、仕事(小説書き)しながら、現地の生活をエッセイでおおくりします、(そしてそれも収入になります。)なんて生活がしたいのです。

つまり、ひとところに留まるのがいや。色んな文化を見たいし、知りたいし、内部に飛び込んで把握してから判断したい。小さい頃から転勤族で鍛えた私は、知らない土地に行くことには抵抗ない。一所で末長い関係を気付いて行くほうが断然苦手。

そんな私のあこがれの人物が、また一人増えました。池澤夏樹氏。
彼の作品は、小説よりもエッセイのほうが好き。沖縄、ハワイ、いろんな土地へ移住しては、そこに溶け込もうとし、見つめようとする。日本人の視点をもったままに、その土地に住み着いた現地人として。それは、旅行者には持てない視点でもある。うらやましいのである。

今回は、フランス。フランスはフォンテーヌブローという、パリから電車で40分の都会につかず離れずの街。

"環境によって生活を励起されるのではなく、自分の選ぶ速度で生活を決めていきたい。そのためには万事において高密度の都会よりも、希薄なままの田舎のほうが良い。そこを刺激的にする方法は現代ではいくらでもある。"(P.20)

という氏が選んだ街は、彼の視点を借りて語られるに、相当魅力的に映る。地に足がついた生活に見える。
日本人であることを意識しながらも、そこにとらわれずに、EUの中のフランスを、フランスの中のフォンテーヌブローを、見つめ、肯定し、批判し、生活していく。

異国で暮らすこと、あるいは、知らない土地へ移住すること、とはすなわち、観察者の目を持つこと、なのかなと思う。どこか知らない土地に入ると、いやおうなしに観察者の目になる。世界がフレームを通して見えるのだ。言葉がフィルターを通して聞こえるのだ。そういう体験は、いつだって新鮮で、自分が一度リセットされる感じ。だけど、やっぱり私は私で変わっていないことにがっかりする感じ。それでも、ちょっとずつ環境に感化されて変わっていく、そういう生活。

そっか、今の私、観察眼がすっかりなくなってたのか。だいたいこうなるんでしょ、と次が予測できる環境に落ち着いてしまっている!そろそろ東京に飽きてきてるのかもな。次はどこへ行こうかな、なんて。この本を読みながら、(フランス生活にあこがれながら、)次の移住先を探す。
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by yebypawkawoo | 2009-09-02 01:51 | ◆本のこと  

『それから』・・・そのまま自然を貫いていけるのでしょうか?

それから (新潮文庫)『それから』 夏目漱石(新潮文庫)
2008年12月30日読了


夏目漱石三部作の2作目、『それから』です。『三四郎』も『門』も、未だ読んだことはありません。が、年齢的にもっとも近いところから入ろうと思い、まずは本作に手を伸ばしました。そのほうが、共感できることも多かろうという魂胆です。

しかし、なかなかどうしてあまり共感できませんでした。論理を盾に、自分の自然を一番として生きてる主人公、代助。三十歳にしてなお、事業を経営する父や兄の援助に頼り、本を読んだり考えにふけったり、いわゆる“遊んで暮らす”毎日です。働くならば、金を稼ぐための労働ではなく、労働のための労働をすべきだ、という考えの元、今日もぶらぶらふらふらしています。そんな代助に私はどうしても、共感することができませんでした。

ひとつには、そういう生き方がうらやましいという気持が私にあるのです。本当は、私もそうやって生きていたいのです。自分の自然にしたがって、心の赴くままに刹那を過ごしたいのです。そうです、私は強烈に彼の生き方を羨んでいます。妬んでいます。なぜなら、今のわたしは、自然に逆らって生きざるを得ないからです。経済的理由ゆえ、自分の本当の希望より食い扶持を稼ぐに重点を置いてしまっている自分がいます。本当はそうしたくないのです。だけど、その道を進んでしまっているのです。

ひとつには、論理的矛盾を感じるからです。彼のその自然を支えているのは、計画にのとった父や兄の事業です。金のを稼ぐための労働です。代助はその上に胡坐をかいているのです。のうのうと!いや、何か指摘するようなことをいいましたが、本当はこれも私の嫉妬に違いありません。親の援助で遊んで暮らせるなんて!そんな親がいるなんて!本当ならば私もそうして暮らしたいのです。家庭環境に対する妬み嫉みです。

そして、もうひとつは恋愛です。友人平岡の妻、三千代との恋愛がうまくいってしまうことに対する嫉妬の気持です。いわば、平岡は現実です。どうにも仕様がない、金を稼がなければ生きられない、汚い、嫌な、逃げ出したい、現実です。対する代助は、お遊びです。夢です、空想です。机上の空論です。いつか崩壊する、刹那の幻です。そりゃあ綺麗に違いありません。それを比較するのが間違っているのです。夢のほうが楽しいに決まっているじゃないですか。平岡の行動はどこまでも現実的で、代助の考えはどこまでだって論理です。現実に疲れた三千代が自然の代表、代助を選んでしまうのは、現実を現実的に過ごすしかない私にとっては悔しいのです。悲しいのです。

結局は、嫉妬なのです。代助に対する、共感ではなく嫉妬なのです。そう生きたいけれど生きられていない、自分に対するジレンマなのです。

しかし、最後に代助は現実を突きつけられます。父からの援助をきられ、兄からの縁も切られ、金を稼ぐための労働をしなければならなくなります。それから?それから、代助はどう生きるというのでしょうか。三千代との関係はどうなるのでしょうか。きっとその解は、『門』にあるのでしょう。けれど、そのまま自然を貫いてほしい。猛烈に私はそう望みます。私と同じ状況に立たされた今こそ、自然と論理をふりかざしてどう生きるのか、私に進めなかった道をどうすすむというのか、見せてほしいのです。

まだ、私は、自然を貫く生き方を、諦めきれていないのかもしれません。
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by yebypawkawoo | 2008-12-31 01:13 | ◆本のこと  

『春の雪 豊穣の海(一)』・・・物語の面白さを形作るもの。

春の雪 (新潮文庫―豊饒の海)『春の雪 豊穣の海(一)』 三島由紀夫
2008年12月6日読了


実は、三島由紀夫をきちんと読んだのは初めてです。もう結構前、『仮面の告白』に手をつけて、なんとなく挫折。そのまま、読みにくい作家、のイメージが払拭できずに今に至ったのでした。

しかし、『春の海』。これは絶対読むべきだったと思いました。素晴らしい。物語って言うのは、ストーリーや内容ではなく、それに伴って描き出される心の機微や、その描写や、文体や、文脈や、登場人物の人格や魅力や、ひとつひとつ選ばれる言葉や、その使い方、そういうものによって成り立っているのだということがよくわかりました。裏表紙に書いてあるストーリーだけ読んで手に取らないなんてもったいない。今までの私に言ってやりたい。これからの自分の肝に銘じたい。

あぁ、きっとまだまだ私の知らない素晴らしい作品って言うのはたくさんあるに違いない。こういう本にめぐり合うたびに、本を読み続けていて良かったなぁと思います。そしてこれからの読書が楽しみになります。
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by yebypawkawoo | 2008-12-07 21:25 | ◆本のこと  

『アメリカの鱒釣り』・・・なんでアメリカの鱒釣りなの。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン
2008年11月14日読了


本作は、「アメリカの鱒釣り」にまつわる47の物語を納めた短編集だ。「アメリカの鱒釣り」は、意思を持っている。会話を交わし、返事をくれ、踊りを踊る。

アメリカの鱒釣り(Trout Fishing in America)とは、何を指しているのか?何で、ほかの何でもなくアメリカの鱒釣りだったんだろう?

ということが妙に気になった。ブローティガンを初めて読んだのは『西瓜糖の日々』で、そちらのほうが随分と読みやすかったし面白かった。本作は未だわかったような気にすらなれない。というか、「アメリカの鱒釣り」は、なんで「アメリカの鱒釣り」なの?そこにひかかって進めない。

以前、ブローティガンの研究をしている人と知り合い、何度か会う機会があったのだけど、あぁ、そのときはまだ本作を読んでいなかった私よ!その子はどういう研究をしていたのだろう。ブローティガンを研究するなんてすごく難しそうで面白そうだ。まずは、なんで鱒釣りなのかを私は突きつめたい。そして彼の人となりがもっと知りたい。

訳者藤本和子著『リチャ-ド・ブロ-ティガン』は、ずっと探しているのだけどまだ売っているのを発見したことがない。
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by yebypawkawoo | 2008-11-15 01:10 | ◆本のこと  

『イルカ』・・・っぽさ満開。

イルカ『イルカ』 よしもとばなな(文春文庫)
2008年11月10日読了


人生の位置を定めないという生き方。主人公のキミコは、自分の人生をそう評していて、あぁ私も、そういう生き方を目指しているのかもしれない、と思う。

でも“位置を定めない”の根拠は、すこうしずれているようにも感じます。
キミコは言います。
ここにいて、ここで暮らそう、ここに根をおろそう。どれだけ誘われただろう。恋愛に、友情に、場の力に、信仰に。そういう愛のこもった束縛に、どれだけ身をまかせたいと思いながらも去ってきただろう。私は、そこの持っている魔法が消えるのがわかっていてもそこに留まりたいほどに、その人たちを愛せる自信がなかった。何かが違うと思えば、去るしかなかった。

彼女の場合は、逃げでもあるように思うわけです。考えているようで、最終的な考察は放棄している。感覚に後付で言葉を足した感じがします。こういう気持ちもすごくわかるけど、それを言い訳にするのはずるくないでしょうか。私は、こういう心理的葛藤はもちろんありつつも、もっと単純にリセットしていく人生のほうが楽しそうじゃんーという根拠ももってます。新しい場所に向かい続ける、知らないものを知っていく、驚きとか共感が生まれていく、そういうことの繰り返しが面白いんじゃんか。

と、見解の違いはありつつ、でも私はこのお話結構好きです。下手さを装った文章の中に、やっぱり突き刺さってくる言葉とかがあるんだなぁ。

下手な感じとか、感覚を感覚として放置して論理的説明とか言語はあえて排除するとか、そういうよしもとばななっぽさは、本作でも満開です。こういう感覚を感覚として受け入れて納得しちゃうのは、女子ならではなような気もするのだけどどうでしょう?たぶん、読者それぞれ受け取っている内容はばらばらだったりするんだけど、この小説はそれを良しとしているのだろうなという気がします。そういう広い範疇で成り立つ言葉が選ばれている感じ。ばなな好きの男の子って、私はあんまり会ったことないんだけど、どうだろう?いるのかな。
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by yebypawkawoo | 2008-11-10 23:56 | ◆本のこと  

『回転木馬のデッド・ヒート』・・・語られたがる話の処遇について

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)『回転木馬のデッドヒート』 村上春樹(講談社文庫)
2008年10月中旬読了


10月に本書を再読して、思うことがあった。それを携帯にメモしたまま、忘れ去っていた。こっちに日記を書いていて思い出したので、改めてここに記しておこうと思う。


私には、他人の話を収集していた時期がある。何年か前、私は意識的に、他人の家族の話を収集していたのだ。機会があれば耳を傾け記憶しようとしたし、わざわざ聞き出そうとさえした。さまざまな友人・知人の家族構成を、起こったエピソードを、それぞれの想いや憎しみやしがらみや、愛情を。そしてそれらは私の中にストックされた。『回転木馬のデッド・ヒート』を読みなおして思い出したのはそれらの存在だ。そして気づいた。それらのエピソードは、語れらたがっている。

村上春樹は言う。
どうしても僕の中に小説には使いきれない“おり”のようなものがたまってくる。僕がスケッチに使っていたのは、その“おり”のようなものだったのだ。そしてその”おり”は僕の意識の底で、何かしらの形を借りて語られる機会が来るのをじっと待ち続けていたのである。

この本は、そんな、村上春樹の中で語られる機会を待ち続けていた“おり”の願望を表象化したものだ。語られたがっていた彼らが語られた舞台だ。全8話からなる本書のそれぞれのエピソードは、現実にありえそうでありえなさそうな、絶妙な位置をキープしている。これらは本当に現実におこったことなのか、それとも創作なのか。それは作者ではない我々にはわからない。けれど、現実なのかもしれない、現実なんだろう、と思えてしまうかどうかが重要なのだと思う。少なくとも、私にとっては現実だ。事実、語られたがっている話は、私の中にもある。

他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。“おり”とはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。

確かにそうだ、結局はどこにも行けない。そこに思い至ってから、わたしは収集をやめた。収集は解決にはならないと気付いてから。「文章による自己表現は誰の精神をも開放しない」とは村上春樹の弁。精神解放のための文章ではない。語られたがっているから、語る。それだけだ。けれど、語った先には何かが融解するような気もするのだ。それが何かがまだ私にはわからない。

確かに、彼らは語られたがっている。私の中で無音の声をあげている。でも、まだ時期ではないと思う。さまざまな意味でまだ時期ではない。その先がまだ見えない。声が大きくなり、耳をふさげなくなる時がいつか来るんじゃないかと思う。その時には、語りたいと思う。どのような形でどのように語るのかはわからないけれど。あるいは、そのまま闇の中に葬られる可能性だってあるけれど。
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by yebypawkawoo | 2008-11-07 02:15 | ◆本のこと  

『地下街の人びと』・・・39度の高熱をだしたときの、あの感じ。

地下街の人びと (新潮文庫)『地下街の人びと』 ジャック・ケルアック(新潮文庫)
2008年10月30日読了


訳者あとがきより
ケルアックは意識によることばの検閲を排除し、無意識の領域を掘り起こそうとする。ものすごい速度でタイプを叩きながら精神から湧き出ることばの泉を汲み取る。そしていったん記録されたものを決して推敲したりしない。

これを読んで納得。スピード感あふれる文章だった。というよりも、感覚、色彩とか触感とかそういう感覚が先行していくような文章。思考が文章に追いつけていないような、下り坂で走っていたらスピードがつきすぎて足が絡まっちゃって、でもそのまま走り続けてる、というような、そういう文章だと思った。

ビートニクと呼ばれていた人達の日常を描いた作品ということだけれど、1秒1秒の時間が濃い。主人公レオの視点を通してみる世界は、まるで魚眼レンズを覗き込んだようだ。ゆがんで膨張されて、個人の側にひどく偏っている。でもらりってるときってこんな感じ。高熱が出ているときの、あの感じ。ケルアック本人が、ドラッグをやりながら本作をかき上げたこととは無縁ではなかろう。

こういう作品を読むと、原文で読みたいと思う。訳者の訳はどこまで原文のリズムを語感を表現しているのだろうか?あるいは補強しているのだろうか?

途中で積読仲間入り中のバロウズ、『queer』も早く読まないと。
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by yebypawkawoo | 2008-10-31 00:51 | ◆本のこと  

『異邦人』・・・自分に対して誠実で正直であることを、選びとる過程が抜けている。

異邦人 (新潮文庫)『異邦人』 カミュ(新潮文庫)
2008年10月10日読了


あぁ、私は異邦人だなぁと思う。私は、他人に迎合してうまく取りつくろっているだけじゃんと思われるくらいなら、ムルソーのように自分に正直で誠実であることで死刑となるほうを選びたい。ムルソーは何の悪気もなく、自分に対して誠実であるだけで、おそらくそれは他人に対してもそうなんだと思う。あくまで彼の考える誠実、だが。

ママンの死に涙せず、マリイに愛してる?と聞かれ「それは何の意味もないことだが、おそらく愛していないと思われる」と答える。正直なのだ、そして誠実なのだ。それだけだ。

―結局において、ひとが慣れてしまえない考えなんてものはないのだ
―私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう


この一歩退いた視点と、達観したかのような態度が、おそらく周りの人々の気に入らないのだ。

真実なんていくつでもあって、物事の破片破片に紛れているものだから、それを取り出して、少し加工し、個々人の価値観に合わせ(るように見せかけ)てやれば、それだけで誰もが安堵するのに。ムルソーはそれをしない。それをしようという発想がそもそもない。たぶん、面倒くさいんだ。それをすることに、常人以上に労力を使う人なのだ、たぶん。真実はわずかな一片だけを取り出せば、偽りになる。みんな、自分の好きなように解釈するから。消極的な嘘。だけど綿は、それで作られた幻影の私を、自分の中に見られるのは嫌だ。だから、積極的にあえて何も言わない、そういう選択肢だってある。

人は、解釈できない事実を突きつけられると混乱し、嫌な気分になるので、蓋をする。そういう厭らしさって、たぶん誰でも少しはもっている気がする。ムルソーのように蓋をされる道を選ぶということは、絶望でも無気力でもない。積極的に正直なのだと思う。

だけど、彼は非常に独りよがりでもある。ここまで、自己完結してしまうと、他人の入る余地がない。だから、周囲の視点に立つと非常に寂しく感じる。結局ムルソーは、自己中なんだ。自分に誠実だけれど、他人に対して誠実ではない。今度は、他人の視点から見る誠実。あそっか、つまり私もそういうことか。

他人がどう考えるかということを常に念頭に置き意識した上で選択したムルソーの行動とは思えない。そこが、私が唯一彼に対し、残念ね、と思う点(他人に対しては客観的になれる)。どこまでいっても、例え最終日に大勢の見物人が憎悪を持って彼を迎えたとしても、自分の視点のうちにとどまっている限り、あなたはきっと孤独だよ、ムルソー。
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by yebypawkawoo | 2008-10-15 23:50 | ◆本のこと  

『本格小説』・・・一気に小説世界に引きづり込まれる、久しぶりの感覚。

本格小説〈上〉 (新潮文庫)『本格小説』 水村美苗(新潮文庫)
2008年9月23日読了


素晴らしい小説だった。一気に読んでしまった。そして、全く読み終わりたくなかった。先が早く知りたいけれど、まだ終わってほしくない。こういう気分になったのは、本当に久しぶり。小説って、こういうものか、こういうものだったのか、はぁぁ素晴らしいね、って誰かに伝えたい気分。

―頭の中に「本格小説の世界」っていう小部屋ができたみたいな読後感。

いしいしんじが『三崎日和』の中で、本書についてそう語っていたが、うまいこと言うなあと思う。本当に、小部屋ができた、私の頭の中にも。

『本格小説』は、ひとつのくくりでは説明しきれない。カテゴリに納まりきらない。いろんな側面を併せ持った、細やかで大味な、セピア色だけど新しい、そういう小説だ。これはまぎれもない純文学で、読むと価値観を揺さぶられるような奥深さがある。けれど、エンターテイメント小説でもあって、話それそのものとしての面白さを十二分にあわせもっている。そして、日本語がすばらしく美しい。いい意味で古風な、昔からの日本語の美しさだ。と同時に、全く新しい小説でもあって、壮大なフリ、実験的試みがなされている。

この小説ははたして私小説なのか?どこからどこまでが本当で、いや、それとも全くのフィクションなのか?そんな疑問がわき起こってくる。けれど、その疑問の答えはどうでもよくて、そう思わせた時点でこの小説の、水村美苗の勝ちだ。それは、この小説にほどこされた仕掛けだけではなくて、圧倒的な筆力と壮大な物語性に裏付けられているのではないかと思う。うにゃあ素晴らしかった。拍手。
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by yebypawkawoo | 2008-10-09 23:52 | ◆本のこと  

『パイロットフィッシュ』 と 『村上朝日堂』 についてぐだぐだ。

b0064811_23465779.jpgパイロットフィッシュ (角川文庫)『パイロットフィッシュ』 大崎善生(角川文庫)
2008年7月26日読了


大崎善生は、もともと将棋雑誌の編集者でした。
そんな彼が文筆家へ転向し描いた『聖の青春』(講談社文庫)。これは非常に良かった。村山聖という、29歳で亡くなった棋士の生き方を描いたノンフィクションなのだけど、スタンダードな感動を誘われる。若くして志半ばで亡くなるとか、病を抱えながらも強い意志をもって夢に臨むとか、天才棋士(と認められる)羽生さんとのやりとりとか。そういう感動スタンダード要素がぐいっと詰まっていて、素直に面白かった。人物記っていうのは、やっぱりいいね。

で、『聖の青春』を読み終わった私は、向かった新古書店にて100円で売られてた『パイロットフィッシュ』を購入したのでした。こっちはフィクションね。なんだろ、ちょっと作りこみ感、というかわざとらしさ感というか、がほんのり薫るのだけど(それは、私が歳をとったからかも)、それはそれとして受け流せばなかなかに面白かった。出てくるセリフや言葉の中には、いいこと言うなぁというものもいくつかあって、ただそれらのつなぎ合わせがちょっと物足りない感じはしたけど。

だけど、ここで言いたいのはそんなことではなくて。

『パイロットフィッシュ』を読み終わった私は、同じく新古書店で購入していた『村上朝日堂』(新潮文庫)を読みだしました。『村上朝日堂』に、ビーフカツレツのくだりが出てくるのだけど、それがもうなんつうか美味しそうで美味しそうで。この件をふと思い出し、読みたくなったものの、なぜだか家にない(しかもこの号だけ!)!というわけで買ってきて、読んでいたわけです。

そうしたら、なんだかこの設定、『パイロットフィッシュ』でみたなぁていうのが、ぽつぽつあるじゃないですか。最初は、別に気にしてなかったんだけど、あれ、ここにも、ここにも。となってくると、もしかして大崎善生は、『村上朝日堂』を読みながら、あるいは意識的に設定として利用して、本作を描いたんじゃないかしら?なんて邪念が浮かんできた。

たとえば、
 村上春樹は、学生時代、都立家政の3畳4,500円の激安アパートに住んでいた。
   ↓
 本作主人公は学生時代、都立家政の安アパートに住んでいた。

 村上春樹は学生時代、新宿のレコード屋でアルバイトしていて、後年ジャズ喫茶を開いた。
   ↓
 本作主人公は学生時代、新宿のロック喫茶でアルバイトしていた。

 『村上朝日堂』に大韓航空機がミグに撃墜された話がでてくる。
  ↓
 本作主人公を気に入って面倒見てくれたマスターは、同航空機に乗っていて亡くなった。

いや、二人とも学生時代がそういう時代だったとか(8歳の差はあるけれど)、あるいはたまたまとか、そうなのかもしれないのだけど。

けれど、ふと思ったのでした。小説也何なり、創作するときって言うのは、その材料はどこから出てくるのだろう?って。完全なるオリジナルを作れる人なんてそうそうそうそういない。だから、多かれ少なかれ人は記憶(自分の経験)やあるいは他人の経験や、そういう記録やもろもろから部分的盗作を行わざるを得ないわけで。すべてはその組み合わせでしかないなんて、さみしすぎると思っていた若かりし頃、今ではすっかり私も盗作まみれです。特に仕事においては。それも、意図的に。効率重視、そうかもしれない。それでいいのかもしれない。

でもなんか、違う気がするんだよなぁ。盗作するにしても、一旦自分で飲み込んで消化してからぐだんぐだんになったものを再度構築するっていう、そういう過程をすっ飛ばしちゃあいけないと思うのよ。ちょっとお手を拝借って具合だと、違和感が残るのだと思うのだよ。

実際、本作の設定が、『村上朝日堂』に関係あるのかないのか、そんなことはわかんないけど、本作、なんだか惜しいというか若干のうすっぺら~感が感じられたのは、ひょっとしたら何か関係あるのかないのか。

何はともあれ、『聖の青春』はお勧めです。
聖(さとし)の青春 (講談社文庫)
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by yebypawkawoo | 2008-07-29 23:48 | ◆本のこと