『フロム・ダスク・ティル・ドーン』これホラー?思わず爆笑のこのセンス。

フロム・ダスク・ティル・ドーン [DVD]『フロム・ダスク・ティル・ドーン(From Dusk Till Dawn)』ロバート・ロドリゲス(1996)
2010年4月23日鑑賞


私は、血を見るのが嫌い、というか生理的にダメ。背中がぞぞぞぞっとして、悪寒が走って自分で痛みを感じちゃうタイプの人間なのです。なので、タランティーノさんの映画、面白いとは思うんだけど、ほら、耳切り取っちゃったりとかさ、そういうシーンを直視できないわけです。

で、今回こちら。もう最初から血まみれだもんで、ギャーギャー騒ぎっぱなしだわ、目を覆いっぱなしだわでどうなることかと思いきや。途中から一変、大爆笑(いや、血みどろは変わらないんだけど)。そうかそう来たか、さすが、ですね。

映画を見るとき、ストーリーを現実的に考えちゃう私は、「いやいやだったら皆十字架もってたらいいんちゃうのん?」とか、意味のない(この映画においてはまったくもって何の意味もない)突っ込みを入れつつ、最後の女の子の行く末についてわりと本気で想像しつつ(「あんな血みどろの服で、家族もなくして、どうやって生きてくの?まずはスーパーで怪しまれずに服を買うには?」とか)、それなりに楽しめました。

個人的に好きだったのは、最初の酒屋で主人が銃で撃たれたのち焼身させられるシーンにて、火にあぶられたコーン(ポップコーン)がばちんばちんはじけていたところ。なんて細やかな演出でしょうか。感服。
(でもやはり、血は嫌いなので★ひとつ)。
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# by yebypawkawoo | 2010-04-24 03:09 | ◆映画のこと  

『ぼくを葬る』・・・孤独に対峙する強さを想う

ぼくを葬る [DVD]『ぼくを葬る(おくる)』フランソワ・オゾン(2005)
2010年4月20日鑑賞


これは、すばらしい映画だと思った。少なくとも私は、フランソワ・オゾンの作品の中では一番好きだ。個人的なツボをつかれて、心臓がぎゅんとした。

これは、メルヴィル・プポー演じるロマンが、余命3カ月を宣告されてからの時間をたんたんと描いていく映画。素晴らしいのは、彼がひたすらに自分に向き合っていく、そのさまを描く表現に、描写に、余計な説明が一切ないことだ。ただただ彼の行動を追っていくだけ。しかし、その行動に、彼の心情がきっちりと描き出されている。

メルヴィル・プポー(ロマン)は、祖母ただ一人を除いて、自身の病気に対する一切の説明をしない。その強さを想う。果たして私が余命3ヶ月と宣告されたとき、他人に何も言わずに一人で受け止めるという選択をとることができるだろうか、と思う。しかし、そうありたい、とも思う。そうあることの傲慢さをまた一方で知りつつも、しかしそれが美しいと私は感じるから。

自分自身に向き合うことは、自分の過去にも向きあうことであり、自分の感情にも、その源泉にも向き合うことだ。そしてそれは、結局は個人の物語でしかないのだ。ラストシーンで、はっきりとそのことを悟る。ビーチで遊ぶ若者・子供たちと対比で描かれるメルヴィル・プポー(ロマン)に、その残酷なまでの孤独を感じる。しかし、あまりに美しいシーンでもある。生きるとは、自分の孤独をいかに消化し、昇華させるか、自分の中で折り合いをつけられるかどうか、なのだという気がする。私は自分の物語をきちんと読み切ることができるのだろうか。この本を閉じていてはいけないのだと焦燥感が募る。

それにしても、やっぱりメルヴィル・プポーは、いいなあ・・・。
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# by yebypawkawoo | 2010-04-20 21:22 | ◆映画のこと  

『ブロークン・イングリッシュ』・・・これは、女の子の夢見る物語ですなあ。

ブロークン・イングリッシュ [DVD]『ブロークン・イングリッシュ』 ゾエ・カサヴェテス(2007)
2009年9月19日鑑賞


この映画は、

ノラ・ワイルダー(パーカー・ポージー)、30代、独身。ニューヨーク在住。マンハッタンにあるホテルのVIP対応として働いている。
母親のヴィヴィアン(ジーナ・ロランズ)からは、ことあるごとに心配され、親友のオードリー(ドレア・ド・マッテオ)は。自分の紹介した男性と結婚している。
男性とつきあおうとしてもなぜかうまくいかない・・・。(映画紹介文より)


という彼女が、情熱的な年下フランス人ジュリアン(メルヴィル・プポー)と出会って、恋に落ちる話です。

これはねー、女の子は好きでしょう、きっと。というお話でした。ジュリアンがさー、かわいいの。こんな男の子に強引に来られたら、そりゃあね、仕事も捨ててフランス行きますよね。と思う。
でも、現実にはこんな格好良い男の子に言い寄られたりしないし、そうだとしても、啖呵を切って仕事をやめたり、そのまま彼の後を追って異国にいくことなんてできないだろうし、映画の中での予定調和な偶然だって、それは映画だから起こりうるわけで・・・、と思う。と思いつつも、あー、なんだろ、このキュンキュン感。これは女子の夢だよなー。まんまとはまったわたくしです。

映画の中の母親のセリフに、こんなのがある。
「今の女性は大変ね。チャンスや選択肢も増えたけど、多すぎて選べないの。」

このセリフにうなづいてしまう女子は、きっとこの映画が好きだと思う。
私が最近仕事でかかわったある女性医師(臨床であらゆる年代の女性&不定愁訴系を沢山見ている)が言っていたのだけど、“女性はどんな選択をしても、そうしなかった自分への未練を捨てきれないし、後悔してしまう人が多い”のだとか。

1.結婚するのか、しないのか。
2.仕事は続けるのか、家庭に入るのか。
3.子供を産むか、産まないか。

1は2に直結していて、2は3につながっている。3は、生物学的にリミットがあって、そこから逆算すると1にもどってくる。だから女性は結婚をしたがるのですね。


映画の中の話。「結婚したいの?」と聞かれて、 「そう」、と答えた主人公に、「結婚はただの契約よ、愛するということとは別物だわ」、というようなセリフがあって、そうだよねー。と思う。人を愛することと結婚は別物。じゃあ結婚ってなんでするんだろうね。

私の周りの女子たちは、最近わりと結婚を焦っている、というか、結婚願望が高まっている。30までに結婚したい、というある種慣習的な、「だってそういうもんでしょ、みんなそうだから」というような、私が忌み嫌う、“それって理由になってないじゃん”、を理由としている人もいるのだけれど、でも、3の子作りの生物学的リミットをかんがえると、これはこれであながちただのイメージだけではないのだ。
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# by yebypawkawoo | 2009-12-13 22:35 | ◆映画のこと  

『異国の客』・・・あーん、フランス住みたい!

異国の客 (集英社文庫)『異国の客』 池澤夏樹(集英社文庫)
2009年8月31日読了


忙しさにかまけて、ちっとも読書録を更新していなかった昨今です。なんせ、本当に忙しい。まーいーにーち、まーいーにーち、僕らは鉄板の上、もとい、四角い箱の中。毎朝10時から時には0時まで、四角い箱の中。どうよ?こんなの、人間のすることじゃない。もっと私は文化的で優雅な生活が送りたい。9時5時ライフはどこにあるの?

そんな私があこがれるのは、村上春樹のような小説家。いやいや、決して彼のような小説が書きたいとか、彼のように有名になりたいとか、そんなことではなくて、そのライフスタイルにあこがれるのございます。小説書くなんて、どこでもできるちゃできる。ギリシャ、アメリカ、日本の各地、転々としながら、仕事(小説書き)しながら、現地の生活をエッセイでおおくりします、(そしてそれも収入になります。)なんて生活がしたいのです。

つまり、ひとところに留まるのがいや。色んな文化を見たいし、知りたいし、内部に飛び込んで把握してから判断したい。小さい頃から転勤族で鍛えた私は、知らない土地に行くことには抵抗ない。一所で末長い関係を気付いて行くほうが断然苦手。

そんな私のあこがれの人物が、また一人増えました。池澤夏樹氏。
彼の作品は、小説よりもエッセイのほうが好き。沖縄、ハワイ、いろんな土地へ移住しては、そこに溶け込もうとし、見つめようとする。日本人の視点をもったままに、その土地に住み着いた現地人として。それは、旅行者には持てない視点でもある。うらやましいのである。

今回は、フランス。フランスはフォンテーヌブローという、パリから電車で40分の都会につかず離れずの街。

"環境によって生活を励起されるのではなく、自分の選ぶ速度で生活を決めていきたい。そのためには万事において高密度の都会よりも、希薄なままの田舎のほうが良い。そこを刺激的にする方法は現代ではいくらでもある。"(P.20)

という氏が選んだ街は、彼の視点を借りて語られるに、相当魅力的に映る。地に足がついた生活に見える。
日本人であることを意識しながらも、そこにとらわれずに、EUの中のフランスを、フランスの中のフォンテーヌブローを、見つめ、肯定し、批判し、生活していく。

異国で暮らすこと、あるいは、知らない土地へ移住すること、とはすなわち、観察者の目を持つこと、なのかなと思う。どこか知らない土地に入ると、いやおうなしに観察者の目になる。世界がフレームを通して見えるのだ。言葉がフィルターを通して聞こえるのだ。そういう体験は、いつだって新鮮で、自分が一度リセットされる感じ。だけど、やっぱり私は私で変わっていないことにがっかりする感じ。それでも、ちょっとずつ環境に感化されて変わっていく、そういう生活。

そっか、今の私、観察眼がすっかりなくなってたのか。だいたいこうなるんでしょ、と次が予測できる環境に落ち着いてしまっている!そろそろ東京に飽きてきてるのかもな。次はどこへ行こうかな、なんて。この本を読みながら、(フランス生活にあこがれながら、)次の移住先を探す。
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# by yebypawkawoo | 2009-09-02 01:51 | ◆本のこと  

帰省

久しぶりに、日記を書いてみようかな、と。
そんなことを思ったのは、ここが何もない田舎町だからかもしれない。

1年と8か月ぶりの帰省は、思ったよりも楽しかったのです。
西日本地方のとある新幹線停車駅から、
“常に各停万歳”の全線単線列車にのりかえました。
― この路線の車両は、途中からディーゼル車になる、つまり電車じゃなく、汽車なのよ、
なんてこと、前日に友達に聞くまで知りませんでした。

2両編成の「電車」から、途中、1両編成の「汽車(ディーゼル)」に乗り換え、
揺られに揺られて、3時間。着いた駅は無人駅です。
そこから歩くこと、約5分。わが実家はそんな場所にございます。

同郷の友人に、この地の観光スポットってどこだと思う?
と尋ねたならば、
― そんなん、ユニクロとマックにきまってるじゃろ!
と。そんなほどよく都会(ザッツ嫌味)な田舎町です。

田舎が楽しくないのは、
下世話な世間話(噂話)と、多種排他につながる同族意識と、
個人的な知人の少なさと、井の中の蛙的無恥の蔓延、その他
だと思っていたけれど、

いいところも、いっぱいあったのかもしれない。

それは、今回、知人と二人で行くという、ちょっと特殊な環境下での帰省だったので、
いろんな物事の位相がちょっとずつずれて、それで初めてわかったことだと思う。

 親の外面の良さ(という言葉が適切か、下品さの未露出のおうがニュアンスとしては近しいか)や、
 他人(私の知人)への遠慮・思慮、見栄・・・などなど、による効果だ。

少なくとも、私はその良さを何も見ようとしていなかった、そういう自身の怠慢に気付いた。
かといって、いやなところは嫌なままなんですけれども。


個人的収穫は、もう死んでしまった祖父のかつての職業を知ったこと。
営林署で働く国家公務員だった、だなんて、
いままで私は何も知らなかった。知ろうとしていなかったのです。

小学2年の時に祖父は亡くなったのだけれど、
それから十数年の時を経たのち、私は自ら進んで林学を学びました。
もっと早くに知っていれば、もっと得られたものがあったんじゃないか、なんて
祖父が亡くなって20年、学び舎を出て6年目にして、やっと気づいた。

思うところは多々あれど、祖父の笑顔ははっきりと思い出せます、今でも。
それだけでも、なぜだか幸せな気分になれました。
個人的感傷の巻。
でも、お盆ってのは、そもそもそういうもんなんじゃないの?と。
だからよかったのだ。

形式ではなく、その中にこめられた本質をくみ取っていきたい。
お盆は、ただ帰省すればいい、お墓に参ればいい“場”ではなく、
たとえお墓にいかずとも、故人を思い出ししのんだら。それでいいのではないだろうか。
個々人がそこをおさえた上で、形式を形作っていくことは素晴らしいと思うのだけど。
これは儀式に限らず、例えば言葉をきちんと使うというのも、そういうことの体現だと思う。

さて、明日は東京に帰ります。帰りはJALでさくっと。
あぁ、東京に帰るのが楽しみ。
ふるさとは遠きにありて思うもの。
室生犀星とは違った意味で。
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# by yebypawkawoo | 2009-08-15 00:46 | ◆日々のこと  

雲がながれていく美しさを思う

下手な言い訳をすることはやめよう。
いさぎよくない人生は送りたくないと思う。
選びとっていかなければならない。
選んで行動した結果に対して否定はしない。
認めないといけない。

繰り返しの中に同じ事象などなく、
繰り返しと感じる自分の怠慢と我慢のなさは、
イコール甘えであると思う。

人に見返りを求めてはならない。
全ては自分の選択にかかっている。
神など存在せず、
神という概念はひとつの怠慢であり、
神は存在しないという前提にたつならば、
唯一絶対神として己の美意識をたてよう。

全てを引き受けなくてはならない。
逃げだ、とか、諦めだ、とか
それらも含めた上で引き受けるということ。

常に俯瞰的視点を持つこと。持とうとすること。

孤独を受け入れること。
甘えないこと。
弱さを受け入れ、同時に強さも認める。

大切なのは、自分に対する誠実さではなく、
自分の美意識に対して誠実であること、なのではないか。

ひとりで立つ。歩く。その前提はくつがえされない。そこに飲み込まれないこと。酔わないこと。
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# by yebypawkawoo | 2009-07-30 04:10 | ・書きかけのち編集  

自分マーケティングだなんて、いつの話だよ。

今日は会社の飲み会。新しく入社した人の歓迎会でした。

その席で、なんとなく映画の話になる。ストレス発散法が話題となり、誰かが映画を借りて泣くことだ、といったのだ。だけど、映画の泣きポイントって人によってかなり違うよね。“私は『おくりびと』で大号泣だった”、という人がいれば、一方“一切泣けなかった”と言う人もいるし。(私は、まだ見てない)。悲しい話で泣くんだという人がいれば、親子ものに弱い人、幸せな未来像を見て泣く人(これは私には理解できない)、などなど、おお!なんと多種多様。

私にとっての映画の泣きポイントって何だろう?と考えた。考えて、結論。「わたしのことわかってくれない」だ、きっと。“誰も私のことなんてわかってくれないのよ”、とか、“真意は別にあるのに周囲に理解されない主人公というシチュエーション”とか。これ、かなり私の泣きポイントです。自分は承認欲求が強い、とは思っていたけれど、我ながら本当に強いのだなぁと思う。周りにこう言う人がいたら、あぁなんか成長過程でいろいろあったのかしらね、とか親子関係うまくいってなかったのかもね、とか思うだろうなー他人事として。いやいや自分のことですから、と自分につっこみ。

承認欲求の強さに加えて、おそらく、他人は私のことなんて分かってくれないのよ、なんて(そんなのごくごく当たり前の前提ではあるけれど、もっと自虐的かつ自意識過剰気味に)思っていて、理解してほしいと願っていて、でもどうせ理解なんてしてくれないよね(と、これまた自己中心的に・・・なんか気持ち悪い人だな、私)思ってるのだろうね。だからこそ、そういう主人公に共感して涙するのよね。

でも、ここで思い起こしてみよう。理解してほしい→理解してくれないの、この→部分。この移行の過程で、じゃあ私は他人に理解してもらおうとする行動をとっているのでしょうか?
答えは、否。とってないわけです。確信的にとっていない。とろうとしていない。そのくせ、理解してくれないよね、と自分をかわいそうぶっているこんな自分、いやー本当に気持ちわるーいー。


ここで思い出すのは、地方産業に従事するおじいちゃんおばあちゃんです。産業が発展しないと悩む田舎で往々にしてあるのが、マーケティング下手。いい物作ってれば必ず売れる、とかたくなに信じ、ひょっとしたら売り込みをすること自体が恥ずかしいとすら思っている場合もあり、、マーケティングという概念自体が存在しない、そんな田舎です。私が以前勤めていた会社は、そんな地方の活性化のために、いい物作ってるんだからもっとアピールしないと誰も知ってくれない=買ってくれないよ?と、マーケティングの概念を持ち込み、効果的に宣伝し、売れる仕組みを作る、というコンサルティング事業をやっていた。

こういう話はよくあることで、たとえば最近私が仕事でかかわっている、中小工務店にも多い。俺はいい家つくってんだよ、と職人かたぎのてやんでぇべらぼうめぇ気質の皆様。いい家作ればそれでいんだよ、と、宣伝のうまい大手ハウスメーカーに顧客を取られ、実はそんない技術力の高くない工務店との違いは、一般消費者には伝わらず・・・。この御時世、このままでは淘汰されちゃいますよ?ていう話なわけです。
せっかく、すごーくいい家を。そこらの大手デベにも負けないいい家をつくってるんだから、それをきちんと消費者に伝えようと努力しないとダメなんですよ、大将。知ってもらって、使ってもらって、初めていい家と認めてもらえるんだから。

あれあれ、これって人間も・・・?

自分マーケティングって言葉、何か一昔前に聞いたことある気がする、なんか、マーケティングブームってなかった?恋愛マーケティングとか、なんでもマーケってつけりゃあいいと思ってんでしょ?って題名の本が本屋にあふれた時あったよね。立ち読みしながら、なんだよこのタイトルって、思ったもんね、私。

でも、自分マーケティング、必要なのでは?と改めて思ってみる。マーケティングというか、つまり、自分のことを他人に伝えようとする意思と、技術(伝える人、伝え方、伝える場所の選定技術とかとか)が、やっぱりなんだかんだ重要なのかもね、と思ってみる。

どうせ言ったって、他人には伝わらないよと、いつも最初からあきらめてしまう私は、そんなこっ恥ずかしいことを飲みながら考えていたのでした。(言ったって他人に伝わらない、というよりは、言ったって、言葉を介してしまうことで他人には自分の本意が正確なニュアンスで伝わりえないから、それで誤解が生まれるくらいなら最初から何も伝えないほうがいい、というほうがより正確なのだけれど、いずれにしても、だ。)
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# by yebypawkawoo | 2009-06-19 02:15 | ◆考えたこと  

繰り返す西瓜

ここ最近、夜ごはんがスイカだ。

終電帰りが続き、夜中ともなるとお腹もすいたを通り越して、
やや気持ち悪くもあり、でも何か食べたい。
そういうわけで、帰り道にあるスーパーで、
スイカの小分けパック(切り分けてあるやつ)を買って、
帰って食べるのが恒例となっている。

久しぶりに昼間にスーパーに寄った日曜日、
思い立って、1/4カットのスイカを買ってみた。
これなら、毎晩真夜中にスーパーによる必要がなくなる。
それで、翌月曜日の今日、
早速、買ってきたスイカを切り分けてかぶりついてみたのだ。

なんていうか、すごいノスタルジーに襲われて、まいった。
縁側で風を感じながら、むわっと湿った暑い空気の中で
スイカにかぶつく自分が浮かび上がってきたのだ。
それはもう鮮明に。蝉の声まで。

そういえば、あの肌にまつわりつくような夏の熱気を
感じなくなって何年たつのだろう。
昼間はクーラーの効いたオフィスにこもり、外に出るのは朝と夜中だけ。
こういう生活が日常と化している今、
あの夏の日は、それが日常となることは、
私にはもう来ないのかもしれないと、突如として思う。

過ぎた日は戻ってこないのだ。
それは時間という意味だけではなく、物理的なものとして、そうなのだ。
あの子供だった私の目線から見上げた緑の濃い木々はもうないのだと、
扇風機とうちわで過ごし、タオルケットで昼寝をして、畳の後がほおにつく自分はもういないのだと、
こんなデフォルトされたいわゆる典型的な日本の夏が
実際の私の経験として存在していたものが、
お話の中だけのものとなってしまうのだろうか。

あるいは、本当にそれらは私の経験だったのだろうか。
私のイメージが作りげた虚構ではないのか、そんな気さえしてくる。

これから先、積極的に形作っていかない限り、
繰り返すことはない光景のなんと多いことか。
子供時代に経験したあの日々は、この東京で当たり前に生活していたら、
ただの記憶と化してしまう日々なのだと気付く。

メビウスの輪がほどけた。
意識しない限り、ふたたび結びつくことはないのではないかと、
なぜかしら焦燥に駆られる。
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# by yebypawkawoo | 2009-06-08 20:48 | ◆考えたこと  

優れた本の条件

ここ数か月、読んだ本に線を引くようにしている。線を引く箇所は、単純にこの表現いいな、という場合もあるが、大体が自分の琴線にふれた言葉・文章、言い回しだ。

線を引くことにした理由は様々あるのだけれど、ここ数か月の読書を振り返ってみて、自分がどういう内容に気持ちを動かされるのか、どんな表現が好きなのか、といったことが分かってきた。というのは、読書全体を通した自分のカンどころというか泣き所というか・・・がある程度俯瞰して見えてきたから。これは当初の想定外ではあったが、ひとつの大きな収穫だ。今までの「なんとなく」読書ではわからなかったことだ。一方のデメリットは、新古書店に読了本を売れなくなってしまったことか。本はどんどん増えていくがゆえ、私の生活空間は圧迫されゆく一方通行の道をたどるのみ・・・。(本を売るのは平気なくせに、捨てるのには抵抗を覚える)

それで、振り返ってみて改めて気づいたこと。は、良書(と私が考える書)、あるいは良い表現というのは、一般論にきちんと落ちているものだ、ということ。対して、小説の中のあらすじ・ストーリーは、自分の良書判断にはほとんど関係ないことがわかってきた。ストーリーがどんなものでも、そこから導き出された個人的普遍論、つまり全ての人に当てはまるわけではないかもしれないが、多くの人の行動や感情をパターン化して(哲学化してとも言えるだろうか)表現した言葉や理屈。あるいは、自分さまざまな個人的行動にあらゆる場面で通じる考え方。そういう、個人的普遍論、とでもいうべきエッセンスがあるかないか、が私の中での良書か否かの判断基準になっていたのだ。

この個人的普遍論とは、つまり自分にあてはめて考えることができる言葉だ。これらを読んだとき、小説内での主人公の、私の現実ではとても起こりそうもない、非科学的な、あるいは突拍子もない、環境依存度の高い・・・、行動の数々が、瞬時に自分事化される。この瞬間を求めて私は読書をしているだという気がする。


あまりに現実的で詰まらない話ではあるのだけれど、これは恐らく実生活でも言えることで、たとえば仕事の場において、自分の経験知をあらゆる案件に応用できるように、自分の中で普遍化できる人、というのは仕事ができる人と言えると思うのだ。仕事のような、実務的な話だけではなくて、個人的体験を基に帰納法的に昇華させた人生のエッセンスのようなものを持っているかいないかは、彼・彼女の生き方の幅や深さを規定しうると思う。少なくとも私が話していて面白いのは、断然、自分の話ができる人だ。個別具体論ではなく、個人的普遍論としての。

そういうわけで、私はもっと考えないといけないと思う。他者の論理ではなく、自分の論理が必要なのだ。机上の空論ではなく、自分の固有の経験から生じ"させ"た、自分専用の論理が必要なのだ。頭でっかちな独りよがりな論理では意味がなく、そうではなくて、普遍的である必要がある。でも、個人体験に基づいていることが重要なのだ。私のこれまでの数十年間の時間の積み重ねの中から、もっと導き出せることは多いはずなのだ。だから、私はもっともっと考えなければならないと思う。

自分の体験の普遍化と、それを通した固有体験の共有・公開、それら全てによる昇華を経て初めて、自分と、もしかしたら他人の救いが得られるのではないかという気がする。優れた本とは、つまりこういうものなのではないかと思う。
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# by yebypawkawoo | 2009-05-16 01:59 | ◆考えたこと  

『バタフライ・エフェクト』・・・“選択する”ということを、もっと意識して生きようと思う

バタフライ・エフェクト プレミアム・エディション [DVD]『バタフライ・エフェクト』 エリック・ブレス/J・マッキー・グルーバー(2004)
2009年2月16日鑑賞


パッケージのイメージで、なんとなく怖い話なんじゃないかと思って、敬遠していました本作。友達のお勧めだったのを思い出し、思い切って借りてみました。ら、これが面白かった。

人生は、一瞬一瞬が選択なんだなぁと改めて思う。一瞬の決断が、その後の人生を変えうるわけで、その一瞬がどの瞬間に訪れるかはわからない。それは、神の視点に立たない限り、いつまでたってもどこまでいってもわからないわけで、私の人生において私自身が神になることはできないわけだから、つまり一生わかりえない。

でも、本作の主人公エヴァン(アシュトン・カッチャー)は、その一瞬に立ち返ることができる。過去を修正できる、そのことに気づいた彼は、自分の過去をどんどんやり直していく。だけど、選択をしなおしたら人生は幸せになるかというと、決してそんなことはなく、彼の人生はどんどん思惑とは異なる方向へころがっていくわけです。たとえば、コピーを書いているとき。何か違うなぁと思い、途中の文章を書きなおす。すると、つながりがおかしくなり、直せば直すほど文章が変になって、結局全部直す羽目になり、しまいには何が良いんだか何を書きたかったんだかわからなくなって、わーっと投げ出したくなるあの感じ。に似ていると思った。そういう時は、いったんそのコピーから離れて、別の作業をしたのち、戻ってくるとうまくいくことがわりと多いんだけど、人生ってのはそれができないんだものね。

エヴァンは果たしてこれから、どんな人生を送っていくのだろうかとふと思う。選択しなおせる人生ってのはは、幸せなものなのだろうか。作中では、エヴァンは一人の女性のために自身の過去を修正していき、そして訪れるエンディングは純愛に近いものがあると思うけれど、一見綺麗な面構えのそれは、突き詰めれば主人公の自己満足あるいは自己保身に行きつくのでははないかとも感じる。自分の選択で彼女の人生をめちゃくちゃにしてしまうことへの重責に彼は耐えられなかった、そういう側面もあるよね、きっと。

エヴァンには修正可能であるが故に(そしてやり直し後の世界をしっていまったが故に)、一つの選択の重みが、実感値としてわかってしまう。しかし、修正し得ない我々(私)はその重みに気付かないままに今日も無邪気な選択を繰り返す。のです。
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# by yebypawkawoo | 2009-03-22 02:51 | ◆映画のこと