『ドッグヴィル』・・・何が本当の正義なのか。

ドッグヴィル スタンダード・エディション『ドッグヴィル』 ラース・フォン・トリアー(2003)
2008年8月24日鑑賞


なんなんだ、この映画は。すごい。凄いの一言に尽きる。177分と、約3時間弱もの長編にも関わらず、真夜中に見たにも関わらず、まったくもって眠くならなかった。むしろ、時間がたつにつれ、意識は物語の中へと引きづり込まれ飲み込まれていく。いつもなら残り時間が気になり、映画館ならこっそり携帯を、DVDなら残りの軸の長さを、ついつい確認してしまう私なのに、一度も時計を見ることがなかった。

まず興味深いのが、場面の設定。舞台はドッグヴィルという、アメリカはロッキー山脈のふもとの小さな村、閉鎖空間。これを表現するのに用いられたのは、地面とそこに描かれたチョークの境界線。これは見なきゃわかんないね。こんな感じ。
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全部で9のchapterに分かれていて、その冒頭部では小説の章題のように、各Chapterを説明する文章が挿入されるのだけど、それによって次になにが起こるかが分かってしまうにもかかわらず全然飽きることもないのは、この映画で描かれているのが、きっと誰もが持っている人間の嫌な、でも本音レベルで全然あり得る感情とそこから生まれる行動だから。自分の嫌な面を突き付けられた時、そこから逃げるのか受け止めるのか。なにが起こるのか私は目が離せなかった。分かっていても、本当にそうなってしまうのかを確かめたかった。きわどく不快な行動にだって、自分ならそうしないなんて、全然思えなかった。それは私が、映画の鑑賞者という神の視点を離れて物語の中におりたった瞬間から。

この物語で演じられるのは閉鎖社会の恐怖、のように私には思えた。閉鎖社会といったのは、その名のとおり狭く閉ざされた空間、という意ではなくて(もちろん、それも含まれるのだけど、)ひとつの価値観やあるいは文化を形成し共有する集合体、ということ。小さくは家族だってそうだし、大きくは地球ということもできる。地球に住んでいるということによって生まれる常識を我々はある程度共有していて、それは外部から見たら非常識でありうる。一人ひとりの意識や感情は、共通項を見つけて大きくなっていき、結果として意思をもった生命体のように蠢いていくことは往々にしてある。個を見れば些細なことがマスとなると何倍にも強大化してしまう。その恐ろしさが如実に表れている。ひとたび部外者という認識を持った時、人はきっと、何だってできるんだ。どんな、残酷なことも、手ひどい仕打ちも。

何が正義で、何が悪なのかということを考えさせられる。ニコールキッドマンの最後の選択は、善悪でも正誤でも語れなくて、でも彼女がその決断の前に考えたことには共鳴させられた。結局行きつくのは、自分にとっての正義が何か、でしかないのかなと思って、少し虚しさを覚える。いつだって、大多数が正しく、権力者が強く、それは正義の力が強大化するからなのだ。そんなの間違っている、という意見が強くなるならば、そう思う人の母数が増えたという話。それならば私は、私にとっての正義をきちんと見つめ、考え、それに従って行動するしかない。
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by yebypawkawoo | 2008-09-13 00:43 | ◆映画のこと  

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