『愛されるために、ここにいる』・・・言葉の危うさを思う。

愛されるために、ここにいる『愛されるために、ここにいる』 ステファン・ブリゼ(2005)
2008年8月21日鑑賞


うーん、面白い。パトリック・シェネ演じる主人公は50歳過ぎたおじさん。別に格好良くもないし、地道に地味に生きてきた感じの、つまり、いわゆる普通の。おじさん。本作は、彼の一瞬の恋愛と、同時期に起こった家族間のやり取りが描かれる。そんな、自分とは全くかけ離れた素性ではあるけれど、子供の頃思っていた大人って、自分がその歳になって気づく、全然大人じゃないじゃん子供じゃん、っていうのの未来形を見せられたかのような感覚に襲われた。

父親との関係、息子との関係、女性との関係、そのどれもが自分自身にも当てはまる、と思う。身内だからこそ言えない(言わない)言葉、自己保身かプライドか、傷つきたくがないゆえに言ってしまう言葉。あえて自分の中でさえ言語化しようとしない、感覚を感覚としてそのまま触れないでいたい箇所。そういうものがものすごくうまく描かれていたのではないだろうか。

言葉というのはもの凄く危うい。発した言葉は、言葉として独り歩きしてしまう。本心はそうじゃなかったの、行間を、言外を読んでほしかったの、というのは単なる甘えに過ぎない。だけど、その部分に甘えている人のなんと多いことか。本当に正確に伝えたいならば、誠心誠意言葉を尽くさなければならない。一方で、どんなに言葉をつくしたからといって100%は伝わらない。自分の中で言語化した瞬間から、齟齬は始まっているのだから仕方ない。どこに重きを置くのか。どこを自分の中で大切な部分と定義づけるのか。それによって、言葉として発する範囲と深さは変わってくる。

本作の登場人物たちは、言葉を正確に発していない。相手に届けようとしていない。曖昧な部分に生じる偶然性に成り行きをゆだねている。あるいは、そう意識さえしていないかもしれない。そういうところが、人間らしい部分ともいえる。そういうところが面白くありさえもする。だけど、それだけで日々を過ごしていたら、それはただの怠けであり甘えであるとも思う。偶発性に身をゆだねるのは、その覚悟をもってこそでありたいな、私は。

そうはいっても、感情が先を行き、ひねくれ心が邪魔をしてどうしてもそうあれない時だってある。そういうところが可愛くもあるよね(これってでもあくまで、神の視点で見たときの話だけど)。そういう意味では、この映画、原題の「愛されるためにここにいるわけではない」のほうが、ひねくれ感が出ていていいと思うんだけど。
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by yebypawkawoo | 2008-08-21 23:29 | ◆映画のこと  

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