『エターナル・サンシャイン』・・・覚えている、ということの必然性を思う

『エターナル・サンシャイン』 ミシェル・ゴンドリー(2004)・・・2008年3月31日鑑賞
エターナルサンシャイン DTSスペシャル・エディション
TSUTAYAにて。『マイ・ブルーベリーナイツ』公開記念、見る前に見ろ!
という棚にあった、本作を思わず手に取る。ラブストーリーというくくりでは同じだけれど、なんでこの特集棚に入っていたのかは不明。どうしてなのでしょう?

で、本作、映画自体は、なかなか面白い映画だった。
途中で、最初の話のつながりに気づいて、あぁなるほどって思ったのだけど、きちんと思い出させるようなひっかかり、伏線を張ってたし。

ただ、映画としての面白さはさておき、私は本編の設定自体にはあまり共感できなかった。ケイト・ウィンスレット演じるクレメンタインの行動、別れたばっかりの恋人の記憶を消しちゃう、っていう設定自体には。突発的に過ぎるし、あるいはその理由の説明が不十分。

それよりも、私が共感したのは、キルスティン・ダンストの役どころ。かつて自分が記憶を消していたことを知った時の虚脱感がすごく伝わってきた。忘れてしまった過去、同じことを繰り返しそうになっていた自分、どこまでが本当で誰が何を知っているのかわからない不安と混乱。最後に彼女は、記憶をなくしたすべての人に、その事実と証拠を送りつけます。その行動にも、非常に納得してしまった。

私は、これまで、自分の記憶をなくしたいって(突発的にはあるにせよ、実質的には)思ったことない。自分の行動の帰結としての、記憶。なくしたいほどの記憶って言うのは、それだけのインパクトがあるわけで、各人にとってもそれだけの意味があるのだと思います。映画の中でも、記憶を除去したはずの彼らは、やはり惹かれあってしまう。そこにはそれだけの必然があるのだと思うのです。うまく合わさるような。

だから、やっぱり、つらさから逃れるために記憶を除去するっていうのは間違っている。そのつらさを抱えてこそ、本当の意味で事実を忘れられるし、次に進めるんだと思う。身体って言うのはよくできたもので、忘れるべき記憶はちゃんと忘れさせてくれますよ、そんな人為的施術に頼らなくてもさ。私は、そう信じてます。
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by yebypawkawoo | 2008-03-31 17:28 | ◆映画のこと  

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